スキーで雪面を削りブレーキを極力かけずに、直線的な鋭いターンを次々にこなしながら滑り下りていくアルペンスキー・スラローム。その競技性ゆえ、選手にとってケガはつきものと言える。

 皆川賢太郎(ドームスキークラブ)もまたけがに悩まされたひとりだった。

 2000年、他の選手に先駆け、それまでの常識とは違う168cmの短いカービングスキーを武器に、皆川はW杯で6位入賞を果たした。この出来事はスラロームの歴史を変えたと同時に、皆川を世界のトップ選手へと押し上げた。

 最初の大ケガはそこから2年後の02年3月。00〜01年シーズンのW杯でランキング上位15位以内に入り、翌シーズン(01〜02年シーズン)の第1シード入りを果たした。そして、期待されて出場した2002年2月のソルトレークシティ五輪では1本目でコースアウト。その無念さに追い打ちをかけるように、3月の試合中に左膝前十字靱帯を断裂した。

 その後はしばらく低迷したが、05〜06年のトリノ五輪シーズンには復活し、1月のW杯第5戦で4位、第7戦も6位に入り、本番のトリノ五輪では1本目を53秒44で3位につけた。2本目は50秒74で滑ったが、総合で3位の選手より0秒03遅く、惜しくも銅メダルを逃した。それでも世界にその存在をアピールするには十分な結果だった。

「トリノは準備もすごく良くできた大会だったけど、その後もすごく良くてタイムレースとか小さな大会では負け知らずだったんです。だから、世界チャンピオンになれるという手応えはすごく感じていましたね。でも調子のいい時ほどケガをしやすい。それでまた離脱ということになったんです」

 五輪の翌シーズン(06〜07年シーズン)はW杯開幕戦で13位になり、次の北米カップも優勝と好調だったが、12月にオーストリアで練習中、今度は右膝の前十字靱帯を損傷したのだ。

「やっぱり選手だから無傷でいることは難しいと思うけど、両足をやってしまうと自分の体がどう動くのが正しいか分からなくなって、昔できていた時の状態に戻るのが大変というか......」

 その時29歳。不思議なことに辞めようという気持ちは起きなかったという。

「最初の長野五輪(1998年)やソルトレーク五輪(2002年)の頃は、メダルを獲ったり結果を出したら辞めようと思っていました。でも選手として成熟してきて、続ける意味合いが変わってきました。自分自身の記録を超えたいというのは(競技者として)精神的な面で大切だけど、年齢が上になった分の面白さがある。その代わりにジレンマとして、闘争心不足や若い選手の動きが自分にはイメージできないというのもありますけどね(笑)」

 リハビリを経て、07年11月にW杯復帰を果たすと、バンクーバー五輪に向けて挑戦を続けた。

 2010年、最後の五輪になるだろうと臨んだバンクーバーだったが、思い描く結果を残すことはできなかった。

 天候の悪化でスタート位置が下に下がると、旗門の間隔が狭まり、ギュッと凝縮されたようなコースに。その滑りづらいコースの影響から、半数近い選手が途中でコースアウトしていった。皆川も1回目の滑走で、スタートから数秒でコースアウトし、彼の五輪は一瞬にして終わったのだ。

「みんなに『4年やっててあの秒数は無いだろう』と言われましたね(笑)。2本とも完走した方がいいという考え方もあるかもしれないけど、あの時はトリノの自分を超えることしか頭になかったので......。難しいヘアピンだったけど、そこをアグレッシブに攻めなければ平凡なタイムで終わってしまうのもわかっていたし。攻めないで『2本目頑張ります』みたいになるのは嫌だな、というのが単純にあったんです」

 コースアウトした直後、皆川は呆然とコース脇に立ち尽くしてゴール方向を見ていた。この五輪で引退を考えていたこともあり、頭の中では「自分のスキーキャリアはこれで終わりなんだな」という思いが巡っていた。

「その頃は、世界チャンピオンになれないならいつ辞めても同じかなということを思っていたので。だんだんその世界との距離が離れていくのを感じていたし、レースではギャンブルしなきゃいけない自分もいるし。だから正直、数秒間だったけど精一杯やったなと思えたから、自分に対する怒りはなかったですね」

 一方で続ける意味も感じていた。

 かつては前十字靱帯を切れば代表から外されるというのが常識だったが、今は本人に続ける意志があれば、"辞めない"という選択肢を取れるようになってきた。そんな状況があるならば、プロ選手でいられ、スキーを表現するひとりとしていられる間は、やり続けてもいいのかなという思いが生まれた。

「競技を続けるというのは、単純にいえば精神を鍛えているようなものですね。だから自分のアップダウンのすべてをみてみたいというか。僕の場合は自分が60歳までにやりたいことがある程度決まってるんです。できればルールを作る方にいきたいし、日本でスキーという文化を変えたい。そのためには協会へ入るなど、いろいろな方向性がある。そういうことを考えれば今辞めても、例えばあと6年やっても、そんなに(人生が)変わらないと思ったんです。だったらやれるまでやって、精神を鍛えようという結論になりました」

 バンクーバー五輪後1年間は、競技から少し離れ、父親から引き継いだ家業に専念した。そこから現役に戻ってみると、スキーの本質をシンプルに捉えられるようになっていたという。

 この競技でやっているのは、雪面を落下して行くこと。それを進化している道具と融合させ、人が立てたゲートの間をいかに流れを止めず、ブレーキを少なくして落下していくか。自分の体重を利用してスキーを動かし、スキーの反応をより引き出すこと。以前は"ここにパワーが必要だ"など、自分なりのエッセンスをたくさん詰め込もうとしていた。だが今はシンプルな考えに立ち返った。「斜面に体を合わせろなんて、幼稚園くらいから言われてたけど、今はそれを思ってやっていますから」と笑う。

 休養後の11〜12年シーズンに出場したのは、中国や韓国、日本で行なわれるファーイーストカップとFISレースだけだった。このシーズン、ファーイーストカップの最終戦まで、3勝して2位と3位には一回ずつ入っていた。このまま最終戦を滑りきれば、W杯出場権を手にすることができる状況だったが、転倒で結果を残せなかった。結局W杯の出場権を逃し、五輪に挑戦するための時間を短くしてしまったのだ。

「自分のミスだからしかたないけど、昨シーズン(12〜13年シーズン)W杯に戻れていれば(今の状況は)全然違ったでしょうね。スタート順の早い位置も、30番以内の成績を3〜4回出せば戻れる。だから正直、五輪への距離はそんなに感じていなかったんです。でも、さすがに五輪までに(13〜14年シーズンの)5試合しかないとなると厳しいな、と思いますね。それまではシーズン前に描いていたシナリオ通りに行っていたのに、普通に滑れば勝てるところで転んでチャンスをもらえなくなって......。本当に甘いものじゃないなと思いましたね」

 12〜13年シーズンは北米カップとファーイーストカップで戦い、W杯出場権を獲得した。ほぼ確定した湯浅直樹と佐々木明以外、残りふたつの五輪代表枠に入るには、日本スキー連盟が設定した"W杯など世界レベルの大会で、20位以内に2回以上入る」という選考条件をクリアするしかない。そのチャンスは5レースしかないのだ。

 それでも皆川は「遅い順番でスタートする選手はすごく不利だから、そういう意味では厳しい状態だと思うけど、残された2枠を争う選手の中では、僕が一番チャンスをいただいているかもしれないですね」と前向きに捉える。

「今はただ、単純に五輪という舞台に立ちたいだけですね。3位につけて迎えたトリノの2本目はものすごい緊張感だったけど、競技者としてまたそれを感じたい。しっかり計算して『歴史を変えてやろう』と思う瞬間をもう一回欲しいなと思いますね」

 若い頃は、負けたくないと思うネガティブパワーがエネルギー源だった。それがだんだんと歳をとってきて、それだけがすべてではないと気がつく。若い頃のように体が動かなくなれば、競技の本質をこれまで以上に追求しなければいけなくなる。37歳の今、それがおもしろいと感じている。

「今はできないことだらけだから、それをできるようにするためには自分と戦わなくてはいけない。だから本当の意味で自分に負けないとか、弱くならないとか、ずるくならないとか、子供の頃に言われていたことに戻ってきています。だから今は、ひとりの人間として自分に勝ちたいです。何か成果を上げるということは、生きていく上で何度も味わえるものではないので、競技者である以上、最高の舞台でそれを味わいたい。そしてソチでは僕だけじゃなく、嫁の愛子にも勝ってもらいたいですね」

 11月のW杯第1戦は1本目68位に終わり、12月の第2戦は1本目でフィニッシュできずに終わっている。残されたチャンスは1月6日からの3試合。皆川はそこに、勝負をかける。

折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi