「腕を組むとサッカー選手っぽいよね」とおどける佐田繁理【写真:フットボールチャンネル編集部】

【フットボールサミット第9回】掲載

海外プロ第1号の実兄はなんとあの「さだまさし

 かつては海外へ日本人選手が移籍するだけで異常なまでの注目が集まり、“海外組”として何か特別な存在であるかのように扱われるようなことも少なくなかった。だが、今や海外移籍は珍しいことではない。スポットライトは“海を渡る”から“いかに活躍するか”に移っている。

 日本人選手のレベルが右肩上がりに上昇していったのは、海を渡った選手たちが自分の経験を伝えていったことも大きな要因だ。では、その伝道師のパイオニアは一体誰なのだろうか。歴史を紐解くと、ある人物に辿り着く。

 その男の名は佐田繁理(しげり)。奥寺康彦ブンデスリーガへ移籍するより2年早い1975年、香港リーグでプレー。日本人選手初の海外組になると同時に、日本初のプロサッカー選手となった。

 この佐田という男、実は歌手さだまさしの実弟にあたる。現在の本業は兄のコンサートの演出の総指揮、そしてプロデュースなど。長きにわたり、兄さだまさしを陰ながら支え続けている。

 また本業とは別に、佐田は現在FCエルマーノ那須という中学生年代のクラブのオーナー・代表も務める。午前中に試合を観て、午後は大急ぎで兄のコンサートに駆け付ける、といった強行スケジュールもしばしばあるようだ。現在もサッカーにどっぷりと浸かっている佐田だが、そもそもの出会いはいつだったのだろうか。話は約50年前に遡る。

長崎から台湾大学へそこへ現れたスカウト

「最初はラグビー部に入りたかったんです」と佐田はサッカーと出会った中学生時代を振り返る。ところが、佐田のいた中学校にはラグビー部がなかった。やむなく、「ラグビーと似ている」というサッカー部へと入る。その後、サッカーの名門・長崎南山高校へ進学し、才能を開花させる。

「杉山隆一さんに憧れていたのでポジションは同じく左ウイング。僕は右利きだったんだけど、意外にやりやすかった。ボールをもらって中へとドリブルで切り込んでシュート。これが得意なプレーだったね」

 今風に言えば逆足のウイングでカットインが持ち味。実は羨望の的だった杉山も利き足は右。昔の映像を確認すると、メキシコ五輪3位決定戦での釜本邦茂のゴールは、彼の右足のクロスから生まれている。

 佐田は全国大会出場こそ叶わなかったものの、長崎県選抜に選出されるまでになる。ところが、その後のキャリアとして日本の大学や実業団へは進まず、台湾大学を選択。「中国語を勉強したかった」のがその理由だが、「実は…」と後日談を明かしてくれた。

「高校を卒業して2年後くらいですか。ヤンマー(後のセレッソ大阪)と三菱(後の浦和レッズ)、それと古河(後のジェフ千葉)から話があったことが発覚したんです。酷いことに父と兄が僕に無断で勝手に断っていました(笑)。

『お前は高校のときから台湾に行くって言ってたから、断っといたよ』と言うんですけど、『えー!! 何それ!?』って思いましたよ。別に台湾行きを後悔しているわけではないですが、ちょっとがっかりしましたよね(笑)」

日本初のプロサッカー選手が誕生した瞬間

 今でこそ笑って話すが、この家族の何とも軽い決断が“記録に残る選手”誕生のきっかけとなる。

 台湾大学でもサッカー部へ入り、佐田は現役を続ける。そこで実力を発揮すると、なんと台湾代表に選出された。

「選ばれた後に向こう(台湾)のサッカー協会の関係者から『お前、華僑の人間なんだろ?』と聞かれたんです。どうも勘違いだったようで、『いや、華僑じゃないですよ』と言ってパスポートを見せると、『じゃあダメだ』となりました。

 もちろん僕は日本人ですが、一国の代表として国を背負って試合に出るなんて、なかなか経験できないことじゃないですか。なにかぬか喜びのような感覚になって、落ち込みましたよね(笑)」

 代表入りは叶わなかったが、実力は本物だ。ある時、佐田はスカウトの目に止まる。当時、東アジアでは香港リーグが活況を呈しており、近隣諸国から選手を集めていた。台湾にも触手を伸ばしていて、そこで佐田へ移籍の話が来る。接触してきたのは本契約をすることになる東方足球隊というクラブだ。

「二つ返事でOKしましたね。実は台湾代表の話がなくなって、ちょっとヤケになっていた部分もあったんです。『ええい、行ってやれ!』という感じですよね」

 こうして日本人初の海外移籍を果たすと共に、日本初のプロサッカー選手が誕生したのだった。

香港リーグでレギュラー記録だけに留まらぬ活躍

 Jリーグ創設が目の前に迫ったある日、佐田は川淵三郎と食事をする機会があった。そこで香港リーグでプレーしていたことを告げると川淵は、「え?! ちょっと待ってよ。それって日本初じゃない」とえらく驚いたという。

 佐田はそれまで自分が“日本初”であることを意識していなかった。つまり、佐田が“プロ第1号”であることを初めて認識した人物は川淵ということになる。だが、佐田は自分が初物であることについて、

「おこがましいよね。日本初と言えば奥寺さんだと思う人が多いじゃないですか。あっちはブンデスリーガ、自分は香港リーグ。何だか申し訳ない気になるよ(笑)」

 と謙遜する。もちろんリーグのレベルは違うが、話を聞いていくと、佐田が偶然プロになったワケではないことがわかる。

 香港リーグは1908年創設とアジア最古のプロリーグ。当時は今よりもずっとハイレベルで、1・2・3部それぞれに18のクラブがあった。佐田の契約した東方は1部に所属し、6〜7位を行き来していたという。中堅クラスであろうか。

 加入時、地元の新聞には『救援日本軍』と書かれて大体的に報じられた。「戦時中じゃないんだから(笑)」と佐田は思ったが、助っ人として大きく期待されていたようだ。

 それは、佐田とクラブとの契約にも表れている。「大学に戻ることも考えていたから給料は断っていた。だから『お小遣い』としてオーナーが払ってくれたんです」と言うが、その額は小遣いの枠を超えている。月給で約10〜15万円。

 日本の大卒初任給が約7万円だった時代だ。その他に勝利給がプラスされる。試合に勝利し、かつ得点を決めると200万円ほどの特別ボーナスが支払われたこともあったという。

 佐田は契約に見合った活躍を見せる。9月中旬という途中加入にもかかわらず、合計で15試合程度に出場。得点も決めた。

「最初の得点はよく覚えていますよ。僕には珍しく頭で2点決めたんです。しかもデビュー戦。最初に結果を出したのは大きかったね。あの2点があったからその後も使ってもらえましたから。右足でも決めたね。左サイドでもらって切り返してのシュート。あとは
…もっと決めてるとは思うけど、40年前のことだからね、覚えてないなぁ」

 3点目は得意のカットインからだった。佐田のゴール数を“2得点”とする情報もあるが、“3点以上”というのが正確な数字のようだ。

「これまでと同じでは通用しないわけですから」

 今の海外組が実感する“世界との壁”も体験済みだ。日本ではボールを前に蹴り出すと、俊足で相手DFを置き去りにすることができた。ところが香港ではそうはいかない。

 当時イギリス領だったこともあり、技術のあるイングランド人選手も多く、また戦術的にも進んでいる。「佐田は足が速い」ということがわかると、対戦相手は機動力のあるDFをぶつけてきて佐田の自由を奪いにきた。

「最初は苦戦しましたし、流石だな、と思いました。ただそこで、味方の使い方や駆け引きを覚えましたね。これまでと同じでは通用しないわけですから」

 体の大きい相手に対してはどうだったのだろうか。佐田の身長は171センチほどだ。

「まともに競り合っても当然勝てません。だから、ジャンプする前に一度体をぶつけるんです。そうすると、相手の体勢が崩れてヘディングしやすくなる」

 壁にぶつかると、技術を磨き、アプローチの仕方を変え、適応を図る。まるで今活躍している海外組のようだ。現在の選手たちについて佐田は「本当に技術的に向上している。世界でも引けをとらない」と賛辞を送るが、「ハングリーさは昔の方が上だったかもね」と語る。

 たとえば、―ある試合で佐田は右足を激しく削られた。捻挫や骨折ではなかったが、くるぶしの辺りがパックリと割れ、骨が見えていたという。

「急いで病院に向かったのですが、医者が麻酔もなしに骨をグッと押し込んで、軽くテープを巻いて治療は終わり。びっくりしましたよ。

 実はテープに石膏のような成分が含まれていて固定はできたのですが、今度はガチガチに固まってまったく動かない。『おい、これ外してくれ。サッカーできないだろ』と言ったんですが、『絶対ダメだ』と。しばらく押し問答を繰り返しました」

 そんな状態でも佐田は次の試合出場を監督に直訴する。現地では試合に出なければ意味がない。レギュラーと控えの差はごくわずか、ケガなどしているとすぐにポジションを失ってしまう。そして何より「削った相手に仕返ししたかった」という。

「せめて10分だけ」と懇願した佐田は、ケガを押して試合に途中出場。因縁の相手を見つけると激しく当たりにいく。次に気がついたのは病院だった。2人とも脳震盪で倒れ、病院送りになったという。「病院ではなんと隣同士のベッドに寝ていました。相手はその時のことをまったく覚えていないようでしたから、『大丈夫か?』なんて声をかけてそっと逃げてきましたよ(笑)」

わずか1シーズンで引退したワケとは

 佐田が東方でプレーしていたのは1シーズンのみ。そこで現役生活を終えている。あっさりと辞めてしまったのは兄とのある約束があったからだ。

 フォークグループ「グレープ」でデビューしたさだまさしだったが、75年にグレープを解散、独立しソロで活動することになる。それに伴い佐田は、兄との約束を守り、歌手さだまさしを支えるようになる。

「もちろんまだまだプレーできましたよ。ただ、さだと中学生の時に交わした約束が忘れられなくてね。さだからしたら、そんなに深い意味はなくて何の気なしに『独立したときは手伝ってくれよ』と言ったのかもしれません。

 僕はただ『わかった』とだけ言ったんですが、どうしてもそれが頭から離れなくて。それでスパっと決断したんです。その約束がなければもう少しプレーしたかったですけどね」

 歴史にたらればは禁物だが、夢想してしまうのは人間の性だ。もし佐田が、もう少しだけ長く現役を続けていたなら、どうなっただろうか。今のような海外組隆盛の時代がもっと早くに到来していたかもしれない。とすると、W杯初出場も現実より早くに……。そんな想像も悪くはない。

text by 植田路生