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2013年はJR九州が「ななつ星 in 九州」、JR東日本が「TOHOKU EMOTION」をデビューさせるなど、「乗ること自体が目的」となる観光列車が各地でデビューした年だった。新しい旅の形として、鉄道ファンにとどまらず広く話題となったようだ。レストラン列車「おれんじ食堂」を運行した肥薩おれんじ鉄道も、その一翼を担ったといえる。この路線は旧鹿児島本線の一部だった区間で、九州新幹線新八代〜鹿児島中央間が開業した2004年、第3セクター鉄道へ転換された。

その肥薩おれんじ鉄道について、路線を地図でたどってみると、出水駅付近で不自然に迂回しているように見える。海沿いにまっすぐ線路を敷けばいいはずなのに、なぜか米ノ津川をさかのぼるように南へ迂回し、折口駅付近でまた海岸沿いに戻る。平行する国道3号線はまっすぐ走っているだけに、鉄道の迂回が際立っている。

米ノ津川の河口が広くて鉄橋がつくれず、川幅が狭くなる上流まで迂回したのだろうか? それとも、米ノ津川の水運を鉄道に転換するつもりだったか? どちらも考えられるけれど、じつは、最大の理由は環境保護だったという。政府主導で全国に鉄道網が整備された時期にもかかわらず、非常に珍しい事例だった。

○ツル飛来地を迂回して!

出水駅付近の「迂回ルート」米ノ津〜折口間は、肥薩おれんじ鉄道が発足する前は鹿児島本線だった。さらにさかのぼると、この区間は八代〜鹿児島間を結ぶ「川内線」の一部として建設され、後に鹿児島本線に編入されている。それまでの鹿児島本線は、現在の肥薩線のルートだった。しかし肥薩線ルートが山岳路線であり、重量貨物や高速運転に不向きだったことから、海沿いの「川内線」が建設されることになった。川内線は1913(大正2)年に鹿児島側から、1923(大正12)年に八代側から順次開業している。

阿久根〜野田郷間は1923年3月に開業し、約7カ月後に米ノ津駅まで延伸している。米ノ津〜折口間について、当初の計画ではほぼ直線で、出水平野を横断するルートだったという。それが迂回された理由は、鳥類学者の内田清之助が、ツルの保護を鉄道省にはたらきかけたからだった。官営鉄道は主要駅を効率よく結ぶルートが採用されており、当時は地域からの要請でルートを変える例はまれだった。しかし、鉄道省は内田の意見を取り入れ、ツル飛来地の迂回を了承した。

なぜお固い鉄道省がひとりの学者の意見を汲み入れたか? その理由は、内田が単なる学者ではなく、史跡名勝天然記念物調査会の考査員という立場にあったこと、ツルに対する日本国民の思いがあったと思われる。

ツルは古来から縁起の鳥として親しまれており、とりわけ江戸時代はタンチョウが手厚く保護されていた。鹿児島藩も江戸幕府の命を受け、ツル飛来地を大切にしていた。一方で鶴は高級食材で、将軍による鷹狩りの獲物のひとつでもあった。明治政府が樹立されると江戸幕府の保護が外れ、ツルの乱獲が始まった。出水のツルも飛来ゼロという年があったという。

こうした野生鳥獣の乱獲の反省から1895(明治28)年に狩猟法が制定されると、出水のツルも少しずつ復活していく。その流れの中にあって、ツル飛来地の真ん中に蒸気機関車を走らせるという計画は、地元の人々にも、環境保護派にも容認しがたいものだった。「川内線」が建設される時代は、ちょうど近代国家となった日本が、環境保護に目覚めた時期でもあった。

現在、出水平野には毎年1万羽を超えるツルが越冬に訪れる。また、日本で見られる7種類のツルがすべてそろう地域でもあるという。飛来する時期は毎年10月から翌年3月頃まで。この時期にレストラン列車「おれんじ食堂」の旅を計画するなら、出水のツル見物もぜひ加えておきたい。

(杉山淳一)