勘定奉行 荻原重秀の生涯

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「勘定奉行 荻原重秀の生涯」(村井淳志著、集英社新書)

荻原重秀は、五代将軍綱吉治世の元禄・宝永期の財務官僚である。著者同様筆者も日本史の授業で、彼が主導した元禄の貨幣改鋳は改鋳益を幕府にもたらしたが、物価の騰貴を招き経済を混乱させたと習った。これについて著者は、"荻原重秀の貨幣改鋳は、鋭い貨幣観に基づく適切な金融政策だった"とする近年の学説を紹介する。そして、重秀を悪人であると強烈にイメージづけしたのは、新井白石であると指摘している。白石は、自叙伝「折たく柴の木」で重秀がいかに悪人であるか異様な執拗さで述べており、現実政治においても、弾劾書を六代将軍家宣に繰り返し提出し、三度目には重秀を罷免しないなら自分が刺殺するとまで書いて、ついに蟄居そして変死に追い込むのである。

佐渡金山の産出量を回復

重秀は勘定方の下級役人の次男に生まれたが、勘定方任用以来、「生得記憶強き儘、役筋のこと悉く誦んじ覚えて、即座に其理を応え…」という比類なき能力で昇進してゆく。検地事業で大いに事績を挙げて勘定組頭に抜擢された重秀は、「総御代官御勘定…相改むるべきの旨これを仰せ付けらる」、つまり代官会計検査を命ぜられた。彼は辣腕を振い、世襲代官制を一掃して代官の官僚化を推し進めた。次いで佐渡奉行兼務を命ぜられると、金産出量が大きく減少していた佐渡金山に思い切った資本投入を行い、大規模な排水溝掘削により産出量の回復に成功する。

改鋳は巧妙な商業への課税

元禄八年(1695年)幕府は、勘定吟味役の重秀を実質責任者として史上初の貨幣改鋳を行う。慶長小判の金の含有量を三割減らした元禄小判を1%程度のプレミアムで強制通用させたのである。我々は著者に倣って、この改鋳を戦後の金本位制脱却までの長い道のりの第一歩と、評価してよいだろう。従来この改鋳は深刻な物価上昇を招いたとされてきたが、著者によれば、改鋳直後の元禄八、九年の米価高騰は両年の冷夏多雨によるものであり、改鋳後11年間の米価の上昇は平均年3%弱に過ぎない。著者は、幕府が得た巨額の改鋳益は庶民の負担によるものではなく、慶長金銀を大量に保有していた商業資本などの負担であって、巧妙な商業への課税だったと指摘し、商業資本などの貯蓄を投資に移転させる効果があったとする。

勘定奉行に進んだ重秀は、幕府の経済・財政政策を一身に担う。長崎貿易を改革し、銅輸出を拡大して金銀の流出を防ぐとともに、銅決済の貿易から巨額の運上金を幕府収入に組み入れた。このほか財政収入確保のため様々な改革に取り組むが、不幸なことに、この時期、元禄大地震、宝永大地震、富士山の宝永大噴火など大災害が続く。彼は全国の天領大名領に石高に応じた賦課金を課すなど必死の努力を続けるが、財政は逼迫の度を高めていく。

白石「改鋳が天災をもたらした」

宝永六年将軍綱吉が亡くなり甥の家宣が継ぐと、新井白石の影響力が大きくなる。貨幣改鋳は続けられるが、重秀が最後に行った三度にわたる銀の改鋳は、改鋳の告知のない非公式のもので、1年5か月間に銀の含有量を五割から二割に減らすというかなり強引なものであった。これは、将軍宣下式、江戸城修復、綱吉廟建設などの財源捻出のためのもので、重秀が主張した旗本給与カット案が老中たちに否決されたことに伴う緊急避難的なものであったが、この専ら改鋳益狙いの強引な措置は、金銀を神聖視し貨幣改鋳を不正義と考える白石による重秀排撃の直接的契機になった。

新井白石は「折たく柴の木」で、重秀の「大災害に対処するには当面改鋳でしのぐほかない」旨の発言を、「初めに改鋳のようなことをしなければ天災も起きなかったかもしれない」と批判している。白石はこの前近代的な批判と、奸邪であるとか不正があるといった人格攻撃で重秀排撃に成功している。今日でも政策論の場に陰謀史観めいたものが持ち込まれる例を散見するとき、思い半ばに過ぎるものがあるのは筆者だけであろうか。

「瓦礫も貨幣になり得る」

重秀生涯のハイライトは元禄改鋳であろう。元禄小判の品質が悪いとの批判に対し、彼は「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」と言い放ったという。著者は、「これはまさに名目貨幣の考え方であり、『貨幣国定説』にほかならない」とし、「重秀が『実物貨幣から名目貨幣へ』という貨幣観を自覚的にもちながら改鋳を行った点が、ローマ帝国以来幾多の国々で行われた『後ろめたい』改鋳と元禄改鋳とを決定的に区別する点である」と激賞している。重秀もって瞑すべきであろう。

経済官庁(?種職員)山科翠