【インタビュー】Toby Feltwell (トビー・フェルトウェル)、ストリートウエアブランド C.Eのディレクターであり NIGO® の相談役。謎に包まれてきた彼のこれまでのキャリアにせまる(第1回/全3回)

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取材・文: 編集部  写真: 土屋文護  英語翻訳: Oilman  場所: J-COOK

 

2011年の立ち上げから2年、トーキョーを代表するストリートウエアブランドへと成長を遂げた C.E (シーイー)。グラフィックデザイナーのSk8ightTing (スケートシング) がデザイナーを務める同ブランドにおいてディレクターを担当するのが Toby Feltwell (トビー・フェルトウェル) だ。音楽からはじまり法律を経由、その後ファションやビジネスにまで多岐にわたったワーキングヒストリーをもつ同氏は、C.E のディレクションを行いながら、現在も多数のブランドや人と関わり時代の傍観者とも言うべき俯瞰的目線から独自のコンサルティングをやってのける。謎に包まれてきたこれまでのキャリアから日本のファッション事情、今後の展望について話を聞くべく、お気に入りの場所としてあげてくれた神宮前に位置するカフェ、J-COOK にてインタビューを敢行した。

 

- よろしくお願いします。まずは Toby さんの簡単なバックグラウンドを教えていただけますか?

僕はイギリス生まれで、13歳くらいからスケートボードをやっていたのですが、それを通して音楽と洋服に興味を持つようになりました。ロンドンから電車で40分ぐらいの所に住んでいました。だけど、ロンドンに住みたかったので大学は University of London に入学しました。でも勉強はあまりせずに、ロンドンの老舗スケートショップ SLAM CITY SKATES (スラム・シティ・スケート) に毎日行ってはハングアウトしていました。そこで色んな人に出会いました。昔、ロンドンでは日本のストリートウエアブランドは SLAM CITY SKATES でしか買えなかったんです。なので A BATHING APE® (ア ベイシング エイプ®) や GOODENOUGH (グッドイナフ) なんかは初期の頃から見ていました。大学を卒業する時、就職のことはまったく考えてなく SLAM CITY SKATES で出会った Will Bankhead (ウィル・バンクヘッド) というスケーターが Mo'Wax (モ・ワックス) というレコードレーベルの仕事を紹介してくれて、そこで働くことにしたんです。それから音楽の仕事を7年くらい。Mo'Wax はインディーズっぽく見えて、僕が入ったときには既に 米国の A&M Records のサブレーベルになっていて、その後 XL Recordings の傘下に入りました。働いていた Mo'Waxを通して NIGO® と知り合いました。

 

- NIGO® 氏とは Mo'Wax で一緒に仕事をされたんですか?

僕は当時、MAJOR FORCE (*日本初のヒップホップを中心としたクラブミュージックレーベル) のメンバーでもあった、工藤昌之さんと中西俊夫さんと仲が良かったんです。たしか NIGO® は工藤さんが紹介してくれました。ちなみに Mo'Wax から NIGO® がアルバムをだしたことがあるのですが、そのプロデュースは NIGO® と工藤さんでした。その流れで僕は自然に NIGO® の A&R を担当することになります。Mo'Wax の元の事務所の地下には MAJOR FORCE のスタジオがあったんですが、そこで趣味の一環としてずっとレコーディングをしていたんです。NIGO® がイギリスに出張で来てはスタジオでトラックを取るというサイクルです。レコーディングを始めたのは1997年で、アルバムのリリースは1999年だったので、完成するまでけっこう時間がかかりましたね。

 


Photography: Bungo Tsuchiya | © THE FASHION POST

- NIGO® 氏と関わりを持つようになったのは1997年からなんですね。

そうですね。ロンドンで初めて会って、Mo'Wax が A BATHING APE® と近い関係になってから頻繁に。日本にはレーベルのファウンダー James Lavelle (ジェイムス・ラヴェル) とよく一緒に行っていました。7年も音楽の仕事をしていたので、少し面白みを感じなくなってきて、何か趣味が欲しいと思っていたら、たまたま僕が住んでいた家の近くに法律学校があったので夜間でその学校に通うことにしました。ただ、何も考えずに通い始めたわけではなくて、もともと興味はありました。音楽業界の中で弁護士は少しステータスとして高い職業だというのと、普通の人には分からない秘密がたくさんあって、それは勉強すれば分かるんじゃないかと思ったからです。その学校には4年間通いましたが、イギリスでは法律の試験にパスしてから2年間は法律の仕事をしないと免許がもらえない仕組みなんです。しかも、それは試験にパスしてから遅くても2年後までに始めないといけない。でも僕は4年間勉強してきたものの、これから本当に法律の仕事がしたいかどうかは分からなかった。正直な話、最初はただ知識を得たかっただけで、仕事にするかどうかは二の次でした。そして僕が法律学校を卒業する時には Mo'Wax は XL Recordings の傘下になっていました。そして XL Recordings の役員で法律の仕事をしている人に、弁護士になろうと思っていることを話したら、とても喜んでくれて、いい法律事務所を紹介してくれました。それで8ヶ月後に弁護士事務所で働くことが決まりました。弁護士事務所で働くまでの間、どうせ Mo'Wax の仕事を辞めなければいけないのであれば、早めにいまの仕事を辞めて日本に行ってみようと考えて、NIGO® に相談してみたら、こっちで何か一緒にやろうよ。というオファーをしてくれたんです。それが2003年くらいですね。

 

2/2ページ: C.E (シーイー) をたちあげた経緯について

 


Photography: Bungo Tsuchiya | © THE FASHION POST

- それは A BATHING APE® でということでしょうか?

A BATHING APE® というか、運営会社の NOWHERE (ノーウェア) ですね。事務所に席を作ってくれたんですが、ほとんど毎日 NIGO® と一緒にハングアウトしていました。ちょうど NIGO® はこれからの展開を考えていた時期で、NY にショップを出したいという目標を持っていたので、そのプロジェクトを一緒に進めることになりました。と言いながらも僕は法律の仕事のスタートが決まっていたので8ヶ月くらいしか日本に滞在できなかったのですが。そして世界的に有名なミュージシャン兼プロデューサーの Pharrell Williams (ファレル・ウィリアムス) に会って、NIGO® と一緒にファッションブランド BILLIONAIRE BOYS CLUB (ビリオネア ボーイズ クラブ) を始めるという話が出たのも同じ時期です。

 

- Pharrell Williams 氏とはもともと知り合いだったんですか?

いえ、違います。まだ僕が Mo'Wax にいた頃、結局リリースされなかった『Headz 3』というコンピレーションに The Neptunes (ザ・ネプチューンズ) のインストゥルメンタルを入れたくて連絡を取ったことはありました。しかし、その時は本人とではなく N*E*R*D (エヌ・イー・アール・ディー) の契約していた Virgin Records (ヴァージン・レコード) の知り合いとやり取りをしていたので、直接話しをしたことはありませんでした。この時期に NIGO® と Pharrell Williams が出会ったのは偶然のようなものですが、絶対にどこかのタイミングで一緒に何かを始めるのではないかと漠然に思っていました。2人はセンスが近いので言葉の問題で直接は話ができなくても、大体は理解し合えていました。

 


Photography: Bungo Tsuchiya | © THE FASHION POST

- Toby さんが NIGO®氏 と Pharrell Williams 氏と二人を引き合わせたんですか?

引き合わせたわけではないです。僕はコミュニケーション面でのサポートをしていました。それは単なる通訳と言われてしまうかもしれないですが、通訳だと深いリレーションシップにまで発展しないですよね。言葉の壁や問題を気にしないでいいくらいのリレーションシップをうまくとれるようにサポートしていました。日本にいた8ヶ月の間に NY のお店がオープンする上で必要な準備を終わらせて、BILLIONAIRE BOYS CLUB をどういった形で進めるかというところまで話を進めることができました。そして NIGO® は NY でのビジネスや Pharrell Williams やいろいろな人と契約するにあたって弁護士が必要になったんです。それで僕がタイミングよく弁護士事務所に入ったので、そのポジションに就くことになりました。結局、弁護士事務所にはトレーニーとして働き初めて、すぐに日本やアメリカを行き来して、これまでの仕事の延長線上で弁護士としての仕事をすることになりました。弁護士事務所で働き始めて2年が経って、このままロンドンに残って法律の世界で生きていくか、日本に行ってこの流れをフォローするかという選択をしなければいけなくなりました。結果から言うと、日本に行くことになるのですが、法律もおもしろくなってきていたので、すぐに決断はできませんでした。ただ、日本に住んだ方がおもしろそうだったので、2006年に東京に移住しました。それで NOWHERE と立ち上げた BILLIONAIRE BOYS CLUB の会社の両方に所属しました。約2年くらい前までですね。

 

- NOWHERE ではどんな役職だったんですか?

僕が NOWHERE 入った当初は、堅い感じではなかったので肩書きは無かったです。あとから海外戦略事業部〜という長い名前の肩書きがつきました。でも、肩書きにあるようなことだけをやっていたわけじゃないので、企画部長代理なんかもやっていました。たしか BILLIONAIRE BOYS CLUB の会社での肩書きは副社長だったと思います。BILLIONAIRE BOYS CLUB は NOWHERE と比べてもっと小さな組織だったので、経営に加えて企画やデザインなどすべてを見ていました。その後アメリカの会社に BILLIONAIRE BOYS CLUB のライセンスを受け渡して、違うビジネススタイルで続けることを決定し、その手続きを進めました。それからすぐ NOWHERE を香港の I.T 社に売却しました。ある程度の段階までは僕はタッチしていなかったのですが、いざ契約というタイミングで関わることになりました。上場企業の I.T は香港で一番有名な法律事務所を使っていたので、同じレベルの法律事務所をこちらも立てなければいけない状況だったのですが、香港は基本的にイギリスの法律と一緒なので、イギリスの法律事務所で東京に支店のある Simmons & Simmons というところにお願いして、統括管理を僕がしていました。そして僕は NOWHERE を離れてシンちゃん(スケートシング) と菱山くんと一緒にストリートウエアブランド「C.E (シーイー)」を立ち上げました。

C.E 2012 SS - D Double E from c.e on Vimeo.

 

- スケートシング氏との出会いはいつ頃ですか?

ハッキリ覚えていないのですが、1997年から日本に行くようになったのと同じ時期だと思います。Mo'Wax でもシンちゃんにグラフィックを頼んでいましたし。それからいままでシンちゃんとはずっと仕事をしています。BILLIONAIRE BOYS CLUB ではライセンスを受け渡すまでの間、シンちゃんが全部のグラフィックを作っていましたし。最初につくったBILLIONAIRE BOYS CLUB のグラフィックは、僕が説明を受けてからシンちゃんにお願いしたのですが、シンちゃんはデザインをすぐその日に作ってくれたので、クラブでパフォーマンスしていた Pharrell Williams に DJ ブースの横ですぐ見せて、その場で OK をもらったのを覚えています。その僕がシンちゃんに伝えてグラフィックを作ってもらうというプロセスが BILLIONAIRE BOYS CLUB に関しては最初から最後まで続きました。

 

(第2回/全3回)【インタビュー】Toby Feltwell (トビー・フェルトウェル)、C.Eのディレクターであり NIGO® の相談役。ヒットブランドの仕掛人が語る、ブランド論とは

(第3回/全3回)【インタビュー】Toby Feltwell (トビー・フェルトウェル)、ストリートウエアブランド C.Eのディレクターであり NIGO®の相談役。グローバルな視点から見た東京ファッション過去・現在

 

Toby Feltwell

トビー・フェルトウェル/C.E ディレクター
英国生まれ。96年より Mo'Wax Records にて A&R を担当。その後 XL Recordings で自身のレーベルを立ち上げ、Dizzee Rascal をサイン。03年より NIGO® の相談役として A Bathing Ape® や Billionaire Boys Club/Ice Cream などに携わる。05年には英国事務弁護士の資格を取得後、東京へ移住。11年、Sk8ightTing、Yutaka.Hと共にストリートウエアブランドC.Eを立ち上げる。

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