映画「パリ、ただよう花」に見る恋愛感とは?
Photo by Thinkstock/Getty Images

写真拡大

「一億総中流」と言われてきた日本社会ですが、近年は徐々に格差があらわれ始めている、という見方もあります。「格差婚」といった言葉も生まれていますね。本来、男女が本能的に惹かれあうときには、お互いの社会的身分や経歴などあまり関係ないもの。しかし、長くその関係を続けていくにあたっては、かつ「結婚」という形を目指すにあたっては、それらが障害になることもあります。皆さんは、本能的に、情熱的に求め合った相手との恋愛が、身分や育った背景の違いから成就しなかった経験はありますか?

身体は惹かれ合う、だけど生き方が違う……


そんなことを考えさせられたのは、ある映画から。公開間近の映画『パリ、ただよう花』では、中国人エリート女性ホアと、フランス人建設工の男性マチューの激しく切ない恋愛模様が描かれています。

物語の冒頭、昔の恋人をパリまで追いかけてきたものの振られた傷心のホアは、異国での寂しさを埋めるように、偶然知り合ったマチューと関係を持ちます。ひとときの身体だけの関係ならば、ほどなくして別れ、そこで話は終わってしまうかもしれません。しかし、心のどこかに絶対的な空虚さを抱えていた2人は、激しくお互いを求め続け、情熱的に愛しあうカップルになります。ほどなくして、マチューは「一生楽をさせるよ、大勢子どもを作ろう」とプロポーズ。しかし、ホアは「私は働きたいの」と申し出をはねのけます。

ホアはエリート女性。マチューは肉体労働者。身体を重ねるだけで先の見えない関係が続くなか、マチューはホアに激しく執着するようになっていきます。「俺を捨てるなら死ぬ」と飛び降りようとしたり、ナイフでお互いの血を交えようとしてみたり。ホアの仕事にも拒否反応を見せたり、ホアの友人たちにも馴染めず殴りかかったり。しかし、そんなマチューにも、実は大きな秘密の経歴がありました。
人種や文化の違いも相まって、ホアはついに「わたしたちは違いすぎる、続かない」と涙ながらに訴えます。

「わたしたちは違いすぎる」、でも「どうしよう、愛してる」


恋愛には、わけもわからず衝動的に身体を求め合うことから始まる関係もあります。そのうちに「相手を自分だけのものにしておきたい」と願い、強く束縛や執着をしたり、非常識な行動に出てしまうこともあります。しかし本能的な性愛関係に基づいた恋愛は、熱病のように人を支配すると同時に、とても儚くもろいもの。恋愛のゴールを「結婚」とするならば、成就しないこともしばしばです。

なぜなら「結婚」は、身分や生き方、育った文化などを含め、お互いが自然体でいられ、居心地よく生きていける場所であることが重要になる関係だから。ホアとマチューのように、そもそもまったく異なる背景を持つ男女の場合、「身体の恋愛」はできても、究極のところで分かり合えなかったり、足並みを揃えられず衝突してしまったり……ということは往々にしてあるのかもしれません。

身体、感情、理性。「愛」って一体なんだろう?


しかし、2人は確実に強く惹かれあっていました。人間は、できうるなら「心も身体もまるごと愛し愛されること」を望まずにはいられない生き物。しかしどんなに求め合っても、望むようなゴールには届かない恋愛もある。身体を重ねるほど、孤独と空しさが募ってしまったりもする……。生物としての身体と、理性に導かれる人生の間で、皆さんは「恋愛」というものをどう捉えますか? 

主人公ホアは、横顔が少し中山美穂さんにも似た美しい女性。序盤でこそ振られて男性にすがりますが、作品中、かなり多くの男性に求められ、はっきり言って“モテ子”です。「誰とでも寝る女」と揶揄されたりもする一方で、賢く、仕事をしながら大学でも学ぶエリート女性。きちんと仕事もあって、多くの男性に愛されているように見えるのに、空虚な心を抱え、彼らや自分の感情に激しく振り回されながら生きています。

ジャンルも雰囲気も全く違いますが、映画『モテキ』で長澤まさみさんが演じたみゆきも、同じような孤独感を抱えていたなと思い出しました。不道徳的な行為を推奨するわけではありませんが、鑑賞後は、常識や正論で愛を語るのがばかばかしくもなるほど、“生”に向き合った恋愛映画、『パリ、ただよう花』。赤裸々な激しい性描写も話題のミニシアター系作品です。恋愛の楽しさと同じくらい空しさを感じたことのある男女には、何か感じるものがある作品かもしれません。12月21日より全国順次公開です。
(外山ゆひら)