『1995年』速水健朗/筑摩書房
阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きた1995年。日本の社会に大きな変化が起こったこの時期を、固定観念から一度離れて考えてみようという本だ。

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『1995年』(速水健朗著・筑摩書房)という本が出ている。もちろん「95年について書かれた本」だ。

「これもあれも95年に起こったんだ!なんとなく出来事が集中してる。95年って何かすごい年だな」っていうのは、雑誌の特集やインターネットのまとめサイトなんかでよく見かける。それ自体たしかに面白いし注目も集めることができそうだ。「せんきゅうひゃくきゅうじゅうごねん」って口に出しても何となく世紀末っぽい雰囲気が出ているし、「キャラが立ってる年数」だ。

そして本書は、「95年ってこんなにヤバかった!」「95年を境に、日本社会は一変した!」「95年が日本のキーポイントだった!」と単に言いたい本ではない。

95年は「異常な年」として言及されることが特に多い。その理由は「阪神・淡路大震災」と、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」。そして95年が戦後史の区切りの年になることは、95年の前から分かっていて、それは「戦後50年」という節目になるからだ。あらかじめ節目となることが約束されていた年。

そして95年には「新世紀エヴァンゲリオン」、「Windows95」、「次世代ゲーム機」、「プリント倶楽部」、「少年ジャンプ史上最高部数」、「ゴーマニズム宣言連載移籍」など、さまざまな出来事やキーワードが並び、さまざまな人が「オウム」や「若者たちの抱える闇」「社会構造の変化」と結びつけて考えてきた。多少無理のある本も、結構あった。でもそれぐらいオウムや震災にはインパクトがあったし、バブル崩壊以降で日本の景色が変わったのも確かだ。

本書『1995年』は、「あんまり1995年を特別視せず、いったん偏見無しに見てみよう」というスタートラインから書かれている。政治、経済、国際情勢、テクノロジー、消費・文化、事件・メディアといったテーマごとに章が分けられ、95年に起きたことを並べ、分析していく。当時僕は子どもだったので知らないことも多く、普通に勉強になることも多かった。

読んでいくと、当たり前だが「93〜95年」「90年代中頃に」とかいう表現が多い。たとえば国内で20歳の人口がピークを迎えたことや、日本が定義上の高齢社会(65歳以上の人口が総人口の14〜21%を占める状態)に突入したのはどちらも95年だが、突然起こったことではない。村山内閣も、自民党の汚職や連立内閣の流れで生まれたものだし、地震だって偶然3週間早く起こってれば94年だ。そういう「線引きのしょうもなさ」や「偶然・ノイズ」を取り払って、「95年を中心としたエリア」で冷静にものごとを見ていく。

事件でも世の中の変化でも商品のヒットでも、「種が植えられた時期、育つ時期、花が咲く時期、枯れていく時期」がある。たとえばプリクラの元祖・アトラス「プリント倶楽部」の大ヒットを見ても、アトラスがカメラやプリンターを複合した装置を作ってアミューズメント施設に置こうとする「前夜」から、早い段階でプリクラ業務から撤退している「その後」まで、一連の流れの中の「大ヒット」という瞬間なのだ。見方によっては「作ろうとしたきっかけ」の方が重要だったり、むしろ「撤退」の方が…とか言い出したらキリがない。

オビに書いてある「何が終わり、何が始まったのか」という言葉がまさに言い表しているが、「95年にいっせいに咲いた花の数々」を見るのではないということだ。植えられた種も、枯れたものも見ていく。もし95年が時代の転換点であるなら、その点を見るのではなく、カーブ全体を見ようという姿勢が全体にある。

そしてそれがゆえに、どんどん95年が色あせて見えてくるようになる。つまりそれは、94年と96年と同じように並ぶ、特別ではない95年という数字だ。刺激的な文章や極論が、物の見方に魔法をかけてくれる逆の工程をたどって、バランスや冷静さがこの魔法を消していく。それぞれの95年の記憶やイメージから魔法を消し、その引き算された結果が読者それぞれの「本来の95年像」になるという、ちょっと不思議な本でもあると思う。

もちろん、時代を解説する本なので、その側面も面白い。95年とそれ以前を比較した「ドリカムとユーミンとの間で、歌詞におけるクルマの扱いや描かれ方の違い」や、どん底にあったアップル社がバンダイと作った「Pippin@」についてなど、知らなかったことを知ったり、基本的な「振り返る楽しみ」も提供している。『1995年』(速水健朗著)はちくま新書で出ています。(香山哲)