『目白雑録5 小さいもの、大きいこと』金井美恵子/朝日新聞出版

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中学時代から、小説家・金井美恵子さんの小説を読んできた。
小説だけではない。エッセイや批評も25冊くらい読んできた。
そのエッセイから金井さんが自選した4巻本『金井美恵子エッセイ・コレクション』全4巻の最終巻が、来月(2013年12月)に出る予定だ。

さて、金井さんは2002年からもう10年以上、朝日新聞社(2008年以降は朝日新聞出版)のPR誌《一冊の本》にエッセイを連載してきた。
だいたい2年ごとに本にまとまっている。先日、5冊目の単行本が出た。
新刊が出るたびに、ドキドキしながら読んでいる。ドキドキの理由はあとで述べます。
こう息長く連載が続くと、新刊が出るのを、なにやら私の人生の節目のように、いつのまにか感じてしまっている。こんな連載ってなかなかない。
2013年9月末までの5冊を刊行順に並べるとこうなる。

『目白雑録』朝日新聞社、2004年、のち朝日文庫
『目白雑録2』朝日新聞社、2006年、のち朝日文庫
『目白雑録3』朝日新聞出版、2009年、のち朝日文庫
(ここまでの3冊は、「目白雑録」に〈ひびのあれこれ〉とルビ)
『目白雑録4 日々のあれこれ』朝日新聞出版、2011年
(『4』には、同時期に書かれた単発エッセイ6点が附録として収められている)
『目白雑録5 小さいもの、大きいこと』朝日新聞出版、2013年

だいたい2年ぶんを1冊にまとめることになっている。
3巻までは、題名に〈ひびのあれこれ〉とルビがついていて、4巻は副題が「日々のあれこれ」なのだけど、身辺のことをさほど書いているわけではない。
もちろん、金井さんの他のエッセイの読者にはおなじみの、金井家にずっといた猫・トラーの死をはじめ、目の手術など、著者本人の生活に属することは、たしかに書かれている。
また、映画やサッカーという、これも金井さんの読者には馴染み深い話題だってけっこう出てくる。
けれど、『目白雑録』シリーズでもっとも印象深いのは、金井さんが雑誌や新聞やTVで見た、さまざまな署名原稿・記事・談話の引用なのだ。

こんなふうに書くと、このシリーズを読んでいない人は、金井さんのことを、他人の言葉を引用して字数を稼ぐなんだかズルいライターのように思ってしまうかもしれない。でも金井さんがやっているのはそういうことではない。
では金井さんはなにをやっているのか。
それをわかっていただくためには、こんどは私が、金井さんの文章を引用しなければならない。他人の発言を引用している金井さんの文章を引用するのだから、金井さんの文に〈 〉内で引用された言葉はいわば孫引きされてしまうことになるが、そのへんは勘弁してほしい。
一例として、『4』の末尾の回から引用する。2010年末から翌年始めにかけて、日本各地の児童福祉施設で確認された匿名の寄付行為(タイガーマスク運動、あるいはタイガーマスク現象)にかんする部分。
これによると、この連鎖的な匿名寄付は、社会学者や経済学者、社会運動家らによって各紙誌でさまざまに論じられたようだ。ある者は

〈日本には育たないと言われていた欧米型の寄付という行為が、日本文化的に変容しつつ育つ可能性〉

を語り、またべつの論者は

〈新しいランドセルを持っていなかった子供たちがよろこんだのはもちろんだが〈これによってランドセル業者に新たな所得が入った〉のであり、〈つまり受容をつくることは、それを使う人たちの便益と、それをつくる人たちの仕事の両方を生む〉とちょっとピントのずれたことを書き、〉

さらにべつの書き手は

〈この「運動」〔千野註・金井著内の傍点は斜体とする〕の「善意の連鎖」が多くの人の心を温かくしたのみならず、この2、3年、さまざまな機会にボランティアや寄付が生活困窮者のために寄せられたのを目撃している〉

とも論じたという。
これにたいして金井さんはつぎのようにコメントする。

〈いずれにしても、なんとなくどこかピンとこない論調で、〔…〕マンガの「タイガーマスク」の絵もはっきり言って野暮ったくて泥臭くて昭和二十年代の紙芝居みたいだなあ、と思っていたのだし、ランドセルというのがそもそもなんか変なのだ。
 二月三日朝日新聞「耕論」欄で〔…〕赤木智弘(「論座」の'07年1月号に載った論考「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳、フリーター、希望は、戦争。」の筆者)の語っている中での〔…〕分析が目からウロコと言うべきものだった。〈寄付の対象は児童福祉施設の「可哀相な子」、しかも小学1年生と明確に選別してい〉るのであり〈美談として伝えられ〉ているが〈「再分配」という視点で見れば、持てる側が対象を選別して分配すべきだという優越感の表れと言えるかもしれない〉と赤木は語っているのだが、まったく、そのとおりではないか。〉 

そして多くの論者が〈いわゆるタイガーマスクたちが「ランドセル」を特別視して選別していた奇妙さ〉に反応せず、〈時代を読むという大局的見地から「ランドセル」をその物というよりなにかの象徴として見ているわけである〉と金井さんは指摘するのだ。
たしかに一連の連鎖匿名寄付では、他に文房具やおもちゃ、自転車、食品、現金なども見られたが、ランドセルは最初に寄付されたものであり、また後続の事例でもしばしば寄付された。
〈「ランドセル」をその物というよりなにかの象徴として見〉る、ということは、一見頭がよさそうに見えて、じつのところ、「ランドセルそれ自体」が見えていない、ということがわかる。
モノそれ自体ではなく、それにたいする自前の意味づけのほうを見てしまうとき、私たちの言葉はあっさりと〈ピンとこない〉言葉、〈ちょっとピントのずれた〉言葉、上滑りな言葉になってしまうのだ。

いま引用した『4』の最終回が《一冊の本》2011年3月号掲載。同年6月号からのぶんを収録した最新刊『5』では、著者の身辺のことはほとんど出てこなくなり(だからもう副題は「日々のあれこれ」ではなくなり)、ほぼ全篇がメディア評になってしまう。
時期が時期だけに、結果として『5』は、震災にさいして発せられたさまざまな言葉をリアルタイムで拾い集めることとなった。震災のときにどんな言葉が発せられたか(あるいは私たちが発してしまったか、また容易に同調してリツイートしてしまったか)を知りたければ、『5』を読めばいい。『5』を読めばわかる。

私たちは、震災にさいして「言葉を失った」とか言う。簡単に言ってしまう。自分がいかに言葉を失っているかを、雄弁に書いたり語ったりしたんじゃなかったっけ?
でも私たちの多くはほんとうは、震災にさいして「言葉を失った」りなんかしていない。
それどころか、震災それ自体ではなく自分の思考ばかりを見て、Twitterで、熱に浮かされたように、ふだんより生き生きと上滑りな言葉を発信したりしたのではないか?
『目白雑録』シリーズのウェブ上の感想を読むと、〈溜飲下がった〉、〈違和感が、解明されて霧が晴れた〉、〈ニヤリとさせられ〉る、〈発揮される毒舌には共感〉、〈辛辣で容赦ない呵責が、気持ちいい〉、〈痛快〉、〈鋭い視点は正確〉といった褒め言葉が書かれている。
でも、そうか?とも思う。少なくとも俺は、このシリーズの、とくに『5』を読んで、溜飲が下がるなんてとうてい書けない。
金井さんにツッコまれるにふさわしい脇の甘いことを、俺自身ついポロリと書いてしまったかもしれないのだ。だから自分を金井さんと同じところに置いて、
「金井さんよくぞ言ってくれました」
なんて太平楽を並べる気にはまったくならない。ドキドキしてる。
だから、(「なのに」ではなく「だから」)このシリーズの新刊が毎度楽しみ。

〈映画や美術や小説〔…〕を見たり読んだりする者が百人いたら百人の感想(思いともいわれる)がある、という、もっともらしい主張が語られることがよくあるけれど、むろん、そんなことはない。〔…〕良く似た圧倒的に大多数の同じ感想(思い)と、それと明らかに異なる、少数の言葉が存在しているだけだ。〉(『5』)

ほんとに、金井さん、ほんとにそうですよ。

(千野帽子)

東京・神田神保町の東京堂書店では、平凡社「金井美恵子エッセイ・コレクション」刊行記念フェアを開催中。