《早稲田文学》特装版/早稲田文学会(黒田夏子『abさんごoriginal』特製本付属)

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今年1月の芥川賞受賞作は、黒田夏子さんの早稲田文学新人賞受賞作「abさんご」(《早稲田文学》5号)だった。
じつは芥川賞受賞作『abさんご』は短縮版、公募新人賞向けエディットヴァージョンだった。そしてこのたび、完全版、フルレングスヴァージョンが出た。

『abさんごoriginal』として刊行されたもともとの『abさんご』は、9年かけて1993年に完成したという。20年近く発表されなかった。黒田さんが2010年に刊行した最初の単行本『累成体明寂』(審美社)の巻末の作者略歴にはすでに「abさんご」の名が未発表作品として挙がっていた。
2012年に早稲田文学新人賞に応募するときに、規定枚数におさめるために短縮したのが芥川賞受賞作ということになる。

こういうのは前例がある。芦原すなおの直木賞受賞作『青春デンデケデケデケ』(河出文庫)がやはり、公募新人賞である文藝賞の規定枚数(400枚以内)に従って短縮版で投稿され、受賞、そして直木賞も受賞。
そのあとにもともとの、ほぼ倍の長さの『私家版 青春デンデケデケデケ』(角川文庫)が出た。長いほうしか読んでない。大林宣彦による映画化のテイストは、この私家版のほうに近いと言われている。

《早稲田文学》6号特装版(2013年9月)の別冊附録として刊行された『abさんごoriginal』が、芥川賞受賞作の完全版だ。
ややこしい話だが、《早稲田文学》6号には、通常版(1,500円)と特装版(2,400円、限定1,000部)がある。特装版というのは、辞書なんかだと革装だったりするが、文芸誌の特装版というのは聞いたことがない。
要は附録がついているのが《早稲田文学》6号の特装版なのだ。通常版との差額900円は『abさんごoriginal』代、という感じ。
雑誌の別冊附録が小型のソフトカヴァーで小説、という形式は、戦前から昭和30年代くらいまでの大衆雑誌とか少女雑誌みたいで、新鮮だ。

でもAmazonは困るね。《早稲田文学》6号の通常版と特装版とで、内容紹介の文言は一字一句同じ。「abさんご」で検索しても《早稲田文学》6号特装版は引っ掛らない。初出の5号なら引っかかる。

『abさんごoriginal』は、読みはじめたときは抵抗があったけれど、途中で
「あ、俺いますごくイイ気持ちでこれを読んでる」
と気づいた。読み終わったときにはもう大好きだった。読んで、世界が更新されたのだ。

400字詰め換算で280枚とのことで、中篇小説だ。芥川賞受賞ヴァージョンはその約3分の1程度の短篇。こういうのって、先に長いほうを読んでしまうと、短いほうを読むのが寂しくなってしまうのでまだ読んでいない。
私は、「abさんご」を読んでいない。『abさんごoriginal』を読んでしまったからだ。だから、どっちがいいか、という話はできない。

「abさんご」を収録した文藝春秋刊の同名作品集は『abさんごoriginal』を読んだあとに買ったが、「abさんご」は読まず、併録の初期短篇3作(1960年代に《讀賣新聞》に発表されたデビュー作と、主人公を同じくするらしい、同人誌に書いた2作)は読んだ。
先述のとおり私は、芥川賞受賞作のほうの「abさんご」を読んでいないが、いろいろな点で話題になったことは知っている。

1. 芥川賞史上最高の75歳での受賞
40年近く、「月山」(文春文庫『月山 鳥海山』所収)の森敦の62歳受賞が記録だったが、それを一回り以上上回る記録だという。

2. メジャー文芸誌以外からの35年ぶりの受賞
 《季刊文科》掲載の宮本輝「螢川」(ちくま文庫『螢川 泥の川 道頓堀川』所収)以来のことだという。

メジャー文芸誌、いわゆる「5大文芸誌」とは月刊の《文學界》(文藝春秋)《新潮》(新潮社)《群像》(講談社)《すばる》(集英社)に季刊の《文藝》(河出書房新社。むかしは月刊だった)を加えたもので、80年代から90年代半ばは月刊《海燕》(ベネッセ)、70年代は《海》(中央公論社)を加えて「6大」だったというし、1982年から84年は《海》と《海燕》と両方あったので「7大」だったと聞く。
これら以外の雑誌にだって純文学っぽい作品が載ることはあるけど、候補にはなかなかならないようだ。なっても受賞しない。落ちた作家がのちに「5大文芸誌」に書いて受賞、というパターンならあるみたい。

でも、このふたつの話題には、あまり興味がない。作者の経歴や掲載誌のことは、私みたいな読者にはわりとどうでもいいことだ。
ここからあとは、作品本文にかかわること。基本的に『累成体明寂』にも当てはまる特徴です。

3. 全篇横書き作品
これも芥川賞初だし、そもそも日本では紙の本では一般書をなぜかあまり横に組まない。小説ならなおさらで、ケータイ小説の紙版などは例外だった。

ちょうど20年前(1993年)、石黒達昌の中篇「平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、」(同題作品集所収、福武書店)が芥川賞候補になった(このとき受賞したのは奥泉光「石の来歴」。講談社文芸文庫『石の来歴 浪漫的な行軍の記録』所収)。
石黒のこの作品は単行本では横組だけど掲載誌の《海燕》1993年8月号でもそうだったのかどうかは知らない。ちなみに福武書店版の単行本全体を改稿・再構成した石黒の『新化』(ハルキ文庫)は縦組だった。

《早稲田文学》は縦組メインの雑誌なので、初出の《早稲田文学》5号では「abさんご」は裏表紙を開いたところからスタートしている。文藝春秋の単行本は右から左に開く横組だけど、併録の初期短篇3作は裏表紙から開く縦組で、あとがきではなく横組の「なかがき」が横組頁の最後に収録されている。《早稲田文学》も文春の単行本も同じ構造で、要はどちら側が表1(おもて表紙)か、という違い。
単行本のノンブルは、横組頁はフッタの中央に算用数字で、縦組頁は外側の下のほうに漢数字で置かれている。漢数字のノンブルは最近では珍しい。「なかがき」最終頁(〈081〉頁)の裏側は、3つ目の初期短篇の最終頁(〈四七〉頁)だ。
日本語の小説や一般書が縦組である必要は、じつはあまりない。もちろん横組である必要もない。せっかく日本語は縦横両方に組めるのだから、いろいろあっていいんじゃないか。横組小説は大歓迎だし、『abさんごoriginal』を読むかぎり、これは横組にふさわしい小説だ。

4. 多くのばあいに漢字で書くところを平仮名で書いている
 こんな感じ。

〈週に二どはそれまでのしごとに出かけていくというじょうけんは,やとうがわにしてみればとにかく早急に手がいるための譲歩のつもりだったが,〔…〕.〉

〈ともあれ,二人だけの食事というのは愛戯のひとつでもあるのだから,日常的に外来者をまじえるなどとはおもいもよらなくて,じぶんたちは量も少なく時間もかけないほうなので,つぎからはじしんのへやでゆっくり食べるのが気ままでよかろうと,すんでからやといぬしはえんきょくに言った.〉

どの語を漢字で書くか、という基準はこの作品独特のもので、いっぽうでは〈漉〉のような漢字も出てくる。基準は児童書とは違うのだ。
訓読みの語の多くは和語だから、平仮名で書くかどうかは、ある程度は趣味の問題だ。いっぽう音読みの語はさまざまな理由で、平仮名書きしないものが多い(この文の最初の〈いっぽう〉ですら、平仮名であることに違和感を持つ人はいるだろう)。引用した部分、「条件」や「婉曲」は通常は漢字で書くものだろう。
あとで『abさんごoriginal』をじっさいに読んでみて珍しいと感じたのは、単位を平仮名で書いていることだった。〈三十二さい〉〈四しゅうかん〉、建物の2階を〈二そう目〉など。異様と言ってもいい。
これこそがこの小説の言語の特徴のひとつなのだ。「abさんご」にちなんで「abさん語」と呼ぶべきか、それとも先に公刊された『累成体明寂』にちなんで「累成体」と呼んだほうがいいか。

5. 句読点が「、」「。」でなはくピリオド(.)とコンマ(,)
横書きならそういうこともあるだろうと頭ではわかっていても、これはけっこう新鮮だった。

6. 片仮名を使わない
一般に、片仮名の出番で代表的なのは外来語と擬声語(擬音・擬態語)だが、『abさんごoriginal』では前者はほとんどなく、あったとしても訛ってほとんど日本語と化したもの(〈半だーす〉〈がらす〉)とか日本語と合体して熟語と化したもの(〈くりーむいろ〉〈びー玉〉)で、平仮名書きされる。擬声語はたぶん使っていない。

7. 直接話法で引用される「台詞」がない
村上龍や金井美恵子の作品のように引用符なしで台詞を書くのではなく、登場人物の発話は語り手によってパラフレーズされる(間接話法)。

8. 人名、地名などの固有名がない

9. 親族名称、職業名も、たぶんない
登場人物に名前がない小説ならいくらでもあるが、そういうばあい、親族名称だの職業名だのといった「役割」が綽名のように使われる。これを使わずに小説──いや物語全般をだ──書くには工夫が要る。試しにこれらをいっさい使わずに新聞記事を「abさん語」に翻訳してみるといい。けっこうな難事だ。
当然、なにを言っているのかがわかるのに一瞬の遅延が生じる。読み手に緊張が強いられる。読み飛ばせない。
これを理由に難解だと思う読者がいるかもしれないが、せっかちにならずにゆっくり読めば、なにも難しくない。言っていることは明晰だ。理解にワンクッション置かせるように書いてあるだけです。

10. その他、使うことを避ける語が多い
9.のせいで読み飛ばせないことには平気だった私も、この10.には最初、やや抵抗を覚えた。
9.と並んで10.も、読者の理解を遅らせる。こういう遅延は、ソ連の文学理論家シクロフスキーの言う「異化」をもたらす。符牒と化した言葉を棄てて、世界を新鮮な目で再発見させてくれる。それが言葉の力のひとつの見せどころなのだ。

というのはよく言われることだし頭ではわかっているのだけど、でも。
その頭に反して、やっぱりこう思ってしまう部分も私の頭のなかにはある。
〈天からふるものをしのぐどうぐ〉って、雨傘って言えよ! なんだよその「上は大水、下は大火事」みたいなの!

「abさんご」は内容面から言うと、親に愛された子の話であり、子から見た親の愛情の排他的な(水入らず空間から他人を排除して中に入れない)側面を「失われた楽園」として再構築しているので、題材だけなら森茉莉の『甘い蜜の部屋』(ちくま文庫)と共通するものがあり(小説のタイプはずいぶん違うけど)、それを書いてしまうとなんとなく自己愛的というか被承認体験自慢みたいになってしまう題材なのだ。

芥川賞選考委員のひとりである山田詠美さんは、この作品の〈一人うっとり感〉に興醒めな思いをしたらしいのだが(選評でそう書いている)、それはしかしこういう題材のせいだけではなくて、やっぱりこの〈天からふるものをしのぐどうぐ〉のポエム感のせいもあるだろう。私も読みはじめて、ちょっとこれどうなんだろう、酔ってないか?と思ったりした。頭で。
ただし『abさんごoriginal』よりも山田詠美さんの作品のほうが遥かに「したり顔」なんですけどね。
過ぎたるは猶及ばざるどころか逆に量が質を変える。持って回った言いかたも、やるところまでやれば突き抜けて魅力に転ずる。だってこれ見てよ。

〈へやの中のへやのようなやわらかい檻は,かゆみをもたらす小虫の飛来からねむりをまもるために,寝どこ二つがちょうどおさまる大きさで四すみをひもでつられた.〉

って、「ふたり分の広さの蚊帳を吊った」で済むじゃん! 爆笑しながら、私は黒田さんの文章が、ほんとのところもう大好きになってしまっているのだ。やみつき、と言ってもいい。だから『累成体明寂』も緊急入手した。
これはもうね、酔ってちゃできない。「バカなんじゃないかって思われたらどうしよう」とかいうチンケな自意識でびくついてたら書けません。言う人には言わせておこうっていう度胸がないとね、思い切ったことなんかできませんよ。
けなそうと思えばいくらでもけなせる。欠点なんていくらでも捜せる。頭でならね。
私の頭も、だから『abさんごoriginal』の「ここが弱点」というところを並べ立てたくてうずうずしている。頭は頭だからね。減点法が頭の仕事。
減点法なら私のプライドも保てる。そうすれば頭がいいと思ってもらえるんじゃないかって気がする。
でも読者である私の体は違うことを言っている。読んでいるさいちゅうも、読み終わってからも、「そうだった、世界というのはこういうものなのかもしれない」と言っている。私の体が。
こういう小説は、私の経験だと、読むこっちもバカになりきって読むと気持ちいい。だから『abさんごoriginal』は途中から、「読む人体」に徹して読んだ。

よく、語彙が豊富な文章がいいなどと言われるが、黒田さんは語彙を減らそうとしているかにすら見える。
文章の特徴は、それが含んでいる要素(その文章がしていること)ではなくて、含まない要素(その文章が避けていること)で決まるのだ。
世界に慣れきった目やその他の感覚器官がリセットされて、まるで初めて世界に向き合うのような感じを味わっている。
『abさんごoriginal』を読んで、世界が更新されたのだと、私の体が言っている。
(千野帽子)

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