悲劇の舞台裏で起きた
知られざる「真実」――北澤豪編(2)

今から20年前、1993年10月に行なわれたアメリカW杯アジア最終予選。第4戦の宿敵・韓国戦では、累積警告の森保一に代わって出場した北澤豪が奮闘。攻守にわたって活躍し、チームの勝利に貢献した。そして迎えた"運命"のイラク戦。あのとき、北澤は何を思ったのか――。

■ピッチで戦っているみんなと
 一緒に動いていないといられなかった

 迎えたイラク戦。北澤豪(ヴェルディ川崎/現解説者)はベンチから戦況を見つめていた。もちろん、いつでもピッチに向かう準備は整えていた。攻撃の要であるMFのラモス瑠偉(ヴェルディ/現ビーチサッカー日本代表監督)が4試合にフル出場し、明らかに疲れが溜まっていたからだ。ラモスが動けなくなれば、自分の出番が来ると思っていた。

 予想どおり、日本は1−0で前半を折り返すも、後半はイラクの猛攻にあった。1点返されて、再び勝ち越しゴールを決めたものの、中盤を支配できず、苦しい時間帯が続いた。そして、ラモスはベンチに向かって叫んだ。

「キーちゃんを(ピッチに)入れてくれ」

 その言葉を聞いて、北澤はアップのピッチを上げた。

「間違いなく、オレの出番だと思っていた。ラモスさんも言っていたし......。サッカーの流れを考えても、自分だと思っていたけど......」

 結局、指揮官のオフトは2枚しかない交代枠を北澤にあてることはなかった。ピッチ上の選手たちの願いは無視され、北澤の準備は無駄に終わったのだ。

 それでも北澤はアップをやめなかった。ふたり目の交代選手として武田修宏(ヴェルディ/現解説者)が投入され、自分の出番はないとわかっていたにもかかわらず、走り続けていた。

「いてもたってもいられなかったんだよね。当時の映像を見てもらえばわかると思うけど、同点ゴールを決められたとき、ベンチの並びにオレはいないから。なんで?って聞かれたら困るけど、オフトへの怒りとかじゃなくて、あのときはピッチで戦っているみんなと一緒に動いていないといられなかった。一緒に動いていれば、なんかこのままいけるんじゃないか、勝てるんじゃないかっていう、ぜんぜん試合とは関係ないんだけど、そういう思いだった。もうそれしかできなくて、(試合を)黙って見ていられなかった」

 北澤がアップを続ける中で"悲劇"は起こった。イラクのショートコーナーから同点ゴールを奪われた。

「あのシーンは、はっきりと覚えている。まさか、ショートコーナーなんて......。その瞬間、驚きましたね。ただ、試合が終わって冷静に振り返れば、もし自分が試合に出ていたら、ショートコーナーでボールを受けた選手に寄せていくのは、オレの役割だったんですよ。だから、それからはずっとそのことを考えていました。オレが出ていれば、あのシュートは阻止できたんじゃないか。いや、オレが出ていても阻止できなかったかな、と。両方の思いが自分の中で駆けめぐっていましたね」

 試合後、北澤は宿舎であるホテルのベランダにいた。イラク戦のこと、今後のこと、いろいろなことを考えていた。そこへ、森保一(サンフレッチェ広島/現サンフレッチェ監督)がやってきた。彼は涙を浮かべながら、こう言った。

「こめんね......。やっぱり、キーちゃんが試合に出ていたほうが良かったよね」

 それに対して、北澤は「今さら言うなよ」とすかさず返したが、そのあとに続く言葉は出てこなかった。

「別に、森保を責める気持ちなんて、まったくなかったんですよ。オレが出ていたからって、状況が変わっていたかどうかわからないわけだし。ただ、そんなふうに言われたら、そう言うしかないじゃないですか」

 北澤には、誰かのせいにする気持ちは微塵もなかった。むしろ、自らが置かれた状況を悔いていた。

「最終的に自分で結論づけたことは、オレは『(最終予選には)間に合わなかった』ということ。要するに、ケガをしたあと、自分はまだベストな状態ではなかった。万全だったら、オフトはオレを使っていたと思う。レギュラーじゃなくても、イラク戦における選手交代のファーストチョイスは間違いなくオレだったはず。結局、オフトの信頼を得るだけの状態に、オレが戻っていなかったということなんだよ。ギリギリ最終予選メンバーには残ったけれども、それでは『間に合った』とは言えない。監督の頭の中に、自分の名前が常にあったわけじゃないんだからね。そういう意味では、ケガに対しての悔いが改めて募りましたよ」

 時が流れて2年前、オフトがサッカー界を引退することとなり、都内でドーハの戦士たちが集まって『オフト会』が開かれた。北澤はそこで、イラク戦で自分を起用しなかった理由をオフト本人に聞くつもりだったという。

「最初は絶対に聞いてやろうって思っていたんだけど、(聞くのは)やめました。今さらもう、そんな必要はないだろうと思って。(自分の気持ちは)墓場まで持って行きます」

■悔しいけど、あのとき
 日本はW杯に行けなくて良かった

 さて、「ドーハの悲劇」から20年経った今、北澤にはもうひとつ聞いておかなければいけないことがあった。日本代表のサポーターが、ドーハに持ち込んだ鹿島神宮の御守りのことである。そのひとつは、第1戦から4戦目までが行なわれたカリファスタジアムの、メインスタンドから見て右側のゴールの中に埋められていた。そして、日本の5得点中4ゴールが御守りを埋めたほうのゴールに決まった。

 しかし、イラク戦ではスタジアムが変わって、あるサポーターから筆者である私に「ふたつの御守りを両方のゴールの中に埋めてほしい」という依頼があった。御守りを受け取った私は、同行したカメラマンにその役割を託したのだが、ふたつだと思っていた御守りは、実は3つあったのだ。カメラマンが言う。

「よくよく見ると、3つ目の御守りが張り付いていたんです。それで、ふたつの御守りは、言われたとおりに両方のゴールの中に埋めました。でも、3つ目の御守りをどうしたらいいのか悩んで、そうこうしているうちに選手たちがピッチに出てきた。それで、オレ、キーちゃんに残りのひとつを渡したんですよ」

 結果、日本は両方のゴールに得点を決めたが、試合は2−2の引き分けに終わった。もし北澤が試合に出場していれば、何かしら状況が変わっていたかもしれない......。そう思ってしまうのは、私だけではないだろう。

 ともあれ、20年前に渡された御守りのことを、はたして北澤は覚えているのだろうか。

「覚えていますよ。試合前にカメラマンの方と話をしていて、確かに(御守りを)受け取りました。当時は、サポーターとか、メディアとか関係なく、みんなで一緒に戦っている思いがあった。だから自然に、特別な重圧を感じることもなく(御守りを)受け取ってストッキングの中に入れていました。それで、サポーターのそうした行動も聞いていたので、『オレが出ていれば......』という感情はありましたよ。まあでも、その(御守りの)願いが叶わなかったということは、『日本がW杯に出場するのはまだ早い』と判断した、より力を持った神様がいたってことじゃないのかな。そうでなきゃ、(イラクの)あんな奇跡的なゴールは生まれないよ。

 何にしても、『ドーハの悲劇』があったから、選手としてもっとレベルアップしなければいけないと思って、その後も必死になってJリーグでプレイした。それが、間違いなく自分の成長につながったと思う。そして代表も、その後の4年間の飛躍につながった。今は、あそこでW杯に行けなかったことが、日本のサッカー界にとっては良かったと、考えないといけないのかな、と思っている......。悔しいけどね(笑)」

 大会後、御守りを日本に持ち帰ってきた北澤は、「(御守りは)地元の帝釈天に持っていって奉納しました」という。

 そのとき、北澤が何を祈ったのかはわからない。しかしその祈りが、現在の日本サッカー界の発展に、少なからず力を与えているのではないだろうか。(文中敬称略)

北澤 豪(きたざわ・つよし)
1968年8月10日生まれ。東京都出身。修徳高校卒業後、本田技研(JSL)入り。その後、1991年に読売クラブ(のちのヴェルディ川崎)に移籍。以来、2002年に引退するまでヴェルディひと筋で活躍。日本代表でも"ダイナモ"と称されて豊富な運動量を武器に奮闘した。国際Aマッチ出場58試合(3得点)。日本サッカー協会理事。

渡辺達也●文 text by Watanabe Tatsuya