TBS「伝説の引退スペシャル」(14日放送分)では、「ミスタータイガース掛布雅之 25年目の告白“殴ってやる”意外な男との因縁」と題し、33歳で“早過ぎる引退”と惜しまれた元プロ野球阪神タイガースの掛布氏が現役時代の苦悩や自身の引退について語った。

高卒ルーキーながら1年目から1軍に定着した掛布氏は、1978年に転機を迎えた。これまでチームを支えてきた田淵幸一氏が西武ライオンズにトレードされることになったばかりか、巨人のエースだった小林繁氏が入団してきたからだ。

23歳だった掛布氏は「田淵さんという大きなドームの中で野球をやらせて貰ってましたから、そのドームの屋根が外れた時に今度は自分で(ファンの期待を)受け止めなければいけないと感じたので自分に対しての震えが止まらなかった」と振り返り、また、続く“空白の一日(※)”に纏わる電撃トレードで小林氏がチームに加わった時の様子を「初めて選手の前で小林さんが挨拶したんですね。“巨人には伝統があるけど、阪神には伝統がない”って言ったんですよ。正直、殴りかかってやろうかなと。こいつ何言ってるんだと思ったんです」と明かした。

「その時に自分の気持ちの中でこの人には絶対負けられないと思った。生え抜きとして。この人に負けるような野球をやったら、田淵さんとか歴代の阪神の先輩に笑われる」と語った掛布氏だが、翌年小林氏は22勝を挙げる最多勝を、掛布氏は48本でセ・リーグのホームラン王を獲得するなど大活躍の年となった。

「小林繁というピッチャーに対する意識が打たせた48本なんですよ。そういう意味では小林さんが亡くなられた時、お線香をあげに福井まで行かせて頂いたんですけど、その時に奥さんや奥さんのお母さんに“私は小林繁さんが阪神に来なければ、僕の野球はありませんでした”(と話した)。ものすごく感謝していますね」と話した。

しかし、掛布氏が阪神の中心選手となる一方、ひとたび成績が下向くとファンからは悪質な嫌がらせを受けたこともあったという。1979年の結婚後、1980年に左膝半月板を損傷し、成績を大きく落とすと、ファンの態度が一変。車のボンネットに「やめろ」「死ね」と書かれるいたずらを受けた。

「情けなかったですよね。家に届く手紙には殆どカミソリが入ってた。電話は鳴りやみません。我々が期待に応えられなかった責任は当然あります。それは素直に認めているつもりなんですよ。でも、ファンの方の応援するルールも当然あって然るべき」と振り返った掛布氏だったが、結婚翌年だったこともあり、妻と一緒にいるところでファンに出くわすと、その矛先は妻にも向いたという。「女房に対する攻撃だとか、それは超えてはいけない線を越えたなという。なんでファンの方たちはそこまでやる権利があるんだと。ファンとマスコミと戦ってましたね。大嫌いでした」と語る。

再び飛躍を誓った掛布氏は「一番最初に思ったのは、女房に胸を張らせて大阪の街を歩かせたい。2番目に思ったのは、ファンの方の手のひらをもう一回元に戻して、もう一回見返してやりたいという気持ちですね」と語り、その後1981年から1985年まで全試合出場を果たし、大活躍を果たすと、1985年には球史に残るバックスクリーン3連発をはじめ、チームも圧倒的な強さで21年ぶりのリーグ優勝、球団初の日本一を果たしている。

しかし、1986年にはケガも増え、成績は次第に低迷。その3年後に33歳という早過ぎる引退を表明している。同番組では、1985年の主力優勝メンバーを集め、再会の様子を伝えたが、掛布氏の引退については、佐野仙好氏が「ずっと4番を張ってきた中で、僕みたいに違う打順だったらまだ続けたんじゃないか」と、岡田彰布氏が「俺は4番で終わると思った。打順が下がって辞めるんじゃなしに、4番で辞めるだろうなとは思ってた」と語り、当の本人も「あのままもう一回戻って4番張って野球をやるのは無理だったと思います。チームに迷惑をかけると思う。自分の中で4番として打席に入ることはないだろうなという気持ちの整理がついた時だったと思う」と語った。

※1978年のドラフト会議前日、制度の隙をつく格好で巨人は江川卓氏と強引に契約。実際のドラフトでは阪神が交渉権を獲得したことから、コミッショナーが強権を発動するかたちで阪神−巨人のトレードを提案。阪神は江川氏を巨人に出す替わりに当時のエースだった小林氏を獲得した

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