新雅史『「東洋の魔女」論』(イースト新書、イースト・プレス刊)
気鋭の社会学者が10年前に書いた論文を、新書という体裁で一般向けに刊行したもの。著者がこのテーマを発見したのは、大学院在籍中の2000年、日紡貝塚の後身チームであるユニチカ・フェニックスの廃部のニュースと接したときだとか。

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きょう10月10日は、1964年の東京オリンピックの開会式が行われた日だ。49年前のこの大会で、もっとも日本人の耳目を集めた競技は、何といっても女子バレーボールだろう。閉幕の前日、10月23日夜に駒沢屋内球技場で行われた日本とソ連による決勝戦は、テレビ各局で生中継され、NHKの視聴率は平均で66.8%(関東地区。スポーツ中継では歴代1位)、最高で85%にまで達した。この試合中、東京都内では電話の市外通話がぴたりと止まったというエピソードも残っている。

さて、このときソ連を下して優勝した日本女子バレーボールチームは、全国から所属の異なる選手を集めた選抜チームではない。チームを構成していたのは事実上、大阪府貝塚市にある大日本紡績(現・ユニチカ)の貝塚工場、通称「日紡貝塚」のバレーボールチームの選手たちだった。いま、オリンピックに、選抜ではない特定のチームが出場する競技はまれだろう。夏季・冬季を通じてもカーリングぐらいかもしれない。

じつはオリンピックで女子のチームスポーツが実施されたのは、東京オリンピックの女子バレーボールが最初だった。そうなったのには、国内外で快進撃を続け、「東洋の魔女」の異名をとった日紡貝塚チームの存在を抜きには語れない。そもそも日本の繊維産業のなかからこのようなチームが生まれたのはなぜだろう?

スポーツ史の一現象と見るだけでなく、産業や社会史などの観点から「東洋の魔女」をとらえなおす研究が、この1年あまりのあいだに少なくとも2本発表されている。ひとつは澤野雅彦「「鬼」と「魔女」の会社神話――日紡貝塚バレーボール部」(日置弘一郎・中牧弘允編『会社神話の経営人類学』所収)であり、もうひとつは新雅史『「東洋の魔女」論』だ(ちなみに前者は澤野と新と田口亜紗による共同報告がもとになっている)。

この記事では、これら研究を参考にしながら、日紡貝塚チームが誕生し、東京オリンピックでの金メダル獲得するまでの背景と過程を見ていきたい。

■繊維産業とバレーボールの深い関係
明治時代より、繊維工場の工員には圧倒的に若い女性が多かった。その労働の過酷さは記録文学『女工哀史』などを通じてよく知られるところだ。それでも、国内外からの批判を受け、しだいに政府による規制のほか、企業側からも労働者の待遇改善の動きが出てくる。大正初めに工場法が施行され、労働時間が短縮されると、健康の増進などを目的にレクリエーションの拡充が工場に課せられるようになる。繊維工場でバレーボールが盛んになる下地はここから生まれた。

大正時代から昭和の戦前期にかけて女子工員のレクリエーションとしてバレーボールを導入する工場が増えていく。もっとも戦前において、工場でのバレーボールはあくまでレクリエーションという位置づけであり、競技大会で強かったのは実業団よりもむしろ学校だった。

バレーボール界が実業団中心となるのは戦後、1950年代のことである。労働運動が盛んだったこの時代、明朗な職場をつくり、女工が“変な思想”にかぶれたりしないための配慮から、繊維会社ではバレーボールが奨励された。同じ会社のなかでも寮、事業所、工場、部署などの単位でチームがつくられ、社内で大会が開かれる一方で、対外試合にも積極的に出場した。

こうして繊維工場の女工たちのあいだで、「レクリエーションとしてのバレーボール」と「競技としてのバレーボール」とが両立するようになった。もっとも、しばらくすると両者には乖離が生じるのだが。その理由の一つには、東京オリンピック招致とバレーボールの正式競技化により、競技の専門化が急速に進んだことが考えられる。

■全社的な統一チームとして生まれた日紡貝塚
大日本紡績でもほかの繊維会社と同じく各工場にバレーボールチームが存在したが、1954年にチーム強化のため、これを貝塚に集約するとともに、高卒の新人選手を大量にリクルートして、全社的な統一チームを結成した。監督には学生時代からのバレーボールのプレイ経験を買われて、貝塚工場勤務の大松博文が就任する。

日紡挙げての統一チーム誕生の理由には、繊維産業間での競争が激しくなり、勝つのが難しくなってきたこと、また朝鮮戦争後の景気後退にともなうリストラ策という側面もあったようだ。

日紡貝塚は結成の翌年、全日本女子総合選手権で優勝、続く1956年は決勝で倉敷紡績に敗れたものの、やがて快進撃が始まり、1966年までに国内での公式戦258連勝を達成した。

■6人制バレーボールへの移行と「東洋の魔女」命名
日紡貝塚が連勝を続けるなか、日本のバレーボール界は、国内に定着していた9人制の極東式バレーボールから、6人制の国際式バレーボールを採用する。以来、9人制はレクリエーションとして、6人制は競技としてのバレーボールに固定化されていった。

日紡貝塚は6人制バレーボールへと移行したのち、海外遠征に乗り出す。1961年のヨーロッパ遠征時には、当時世界選手権3連覇中だったソ連チームとの試合を含め、22戦全勝をはたした。このとき地元メディアは日紡貝塚を「太平洋の台風」と表現、さらに「台風だと思っていたら台風はつぶれない。あれは東洋の魔法使いだ」と報じ、これがその後「東洋の魔女」と呼ばれるきっかけになったという。

■当初、オリンピックは目標になかった?
これと前後して1957年にはバレーボールがオリンピック競技に加えられ、1964年以降の大会での実施が決まる。ただし、採用されたのはあくまで男子バレーボールであった。

1959年、バレーボールが初めて実施される予定の5年後のオリンピック開催地に東京が選ばれた。「東洋の魔女」たちに地元で金メダルを獲らせるためにも、女子バレーボールを正式競技にしなければならない。その実現のため、日本バレーボール協会は日本オリンピック委員会を巻きこんで、国際オリンピック委員会(IOC)に強く働きかけた。活発なロビー活動の甲斐あって、1962年6月には、男子の出場枠内での女子の参加が認められる(出場枠16のうち男子10、女子6となった)。

とはいえ、日紡貝塚の選手たちの目標はまず何より、1962年10月の世界選手権で優勝することだった。しかも宿敵・ソ連を決勝で破りその目標が達成されたのち、大松監督および選手の大半は引退するつもりでいた。だが、世論はそれを許さなかった。結局、大松と選手たちは引退を思いとどまり、2年後の東京オリンピックでの優勝をめざすことになったのだった。

■「東洋の魔女」の時代と現在との違い
日紡貝塚の監督・大松博文は、その練習の厳しさから「鬼の大松」の異名をとった。彼は、欧米の選手たちに対する日本人選手の身体的なハンデを克服するべく、「回転レシーブ」などの技を編み出すとともに、それを徹底的に教えこむため、連日長時間におよぶ練習を行なった。大松の指導方法の特徴としてはまた、選手たちの女性性の否定があげられる。生理中にも練習を休むのを許さなかったことなどはその端的な例だ。こうした大松のやり方にはいまでは考えられないことも多いし、当時から賛否両論があった。

現在との違いでいえば、どれだけ夜遅くまで練習が長引こうとも、選手たちが有名になろうとも、大松は午前8時から午後3時半までの勤務をやめさせなかった。そこには、《アマチュアなのだから、仕事の余暇にスポーツをやるのは当然であり、仕事のあとに人並み以上に練習しなければ世界一にはなれない》という理屈があった(新、前掲書)。オリンピックがまだ純粋にアマチュアの大会であった時代ならではの考え方だろう。

当時は世間的にもアマチュア精神を尊ぶ論調が強く、たとえば東京オリンピック前、日紡貝塚が会社の意向を受けて、休日に全国各地で公開練習を行なったことに対し、「アマ精神を踏み外している」との声もあがったという。これとて、いまならファンサービスととる人が大多数だろうし、企業が自社チームを通じてイメージアップに力を入れることは珍しいことではない。そもそもオリンピック自体が企業からの協賛金なしにはもはや成り立たない。

こうして見ていくと、「東洋の魔女」をめぐる環境は、いまのオリンピック選手とは違うことばかりのように思える。実際、違う点のほうが目立つのだが、いまに通じることもないわけではない。たとえば、日紡貝塚で主将を務め、去る10月3日に亡くなった河西昌枝(結婚後の姓は中村)は、大けがをする危険性があるにもかかわらず爪を伸ばし、試合時にはマニキュアをしたという。これなど大松へのささやかな抵抗ともいえるし、どんなときも女らしさを忘れない、その気持ちや振る舞いはいまの選手たちにも通じるのではないだろうか。

東京オリンピックでの優勝ののち、大松は監督を退き、河西をはじめ主要な選手たちもあいついで引退、結婚している。引退した彼女たちは、主婦を集めての「ママさんバレーボール」の普及に尽力した。そのなかで、かつて《女性労働者と結びついたバレーボールのありかたは徐々に姿を消していき、労働や階級から遠く離れた一般女性が楽しむ代表的スポーツとして、国民のあいだに流通していく》(新、前掲書)。

東京オリンピックは戦後日本の国際社会への本格復帰を象徴するイベントだった。その開催と前後して実施された、貿易・為替や資本の自由化にともない、日本の各産業は国際競争の波にさらされることになる。そのなかで明治以来、日本経済を支えてきた繊維産業は、より人件費の安い後発国に追い上げられ、凋落していった。そう考えると、「東洋の魔女」の活躍は、日本の繊維産業が最後に放った光芒だったともいえる。
(近藤正高)