ベイビーレイズ「暦の上ではディセンバー」
「あまちゃん」の劇中、アメ横女学園の持ち歌として登場した「暦の上ではディセンバー」。ダウンロードシングルとして配信され、アルバム「あまちゃん 歌のアルバム」にも収録された“アメ女バージョン”は、実際にはベイビーレイズと劇中でアメ女の成田りなを演じた水瀬いのりが歌っている。画像はその後リリースされた、ベイビーレイズ版のシングルのジャケット。実在のアイドルグループが、ドラマ上の架空のアイドルグループの“影武者”として歌ったというのが、「あまちゃん」のストーリーにかぶせているようで面白い。

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NHKの連続テレビ小説で、宮藤官九郎が脚本を担当、それもご当地アイドルをヒロインにしたドラマを書くと知ったとき、私はツイッターに「来年度前期のNHK連続テレビ小説、クドカン流アイドル論といった趣きで楽しみ」と投稿していた。

正直にいえば、じつはこのとき、私は「あまちゃん」に期待を寄せる一方で、一抹の不安もあったりで何とも複雑な気持ちでいた。これというのも、10年ほど前にある雑誌で、クドカンが「アイドルに勇気づけられるとか、そういうのがよくわからない」という趣旨の発言をしていたからだ。

クドカン作品には「池袋ウエストゲートパーク」や「タイガー&ドラゴン」など好きなものも多い。だけど、ことアイドルファンとしては、例の発言を読んでカチンと来て以来、クドカン許すまじ! と思い続けてきた。それゆえ、クドカンがアイドルをドラマ、それもNHKの朝ドラでとりあげると聞いて、果たしてどんなものになるのか、もし的外れな描写があろうものなら、容赦なくツッコミを入れるつもりで待ち構えていたのである。

しかし……気づけば、私はすっかり「あまちゃん」にハマっていた。大多数のファンの例外に漏れず、ヒロインの天野アキ(能年玲奈)やその親友の足立ユイ(橋本愛)、あるいは彼女たちを取り巻く人々の動向に一喜一憂し、劇中の随所に仕込まれた小ネタ探しに熱中した。そして、肝心のアイドルに関する場面――とくに「東京編」でのGMTやアメ横女学園の一連の設定には、AKB48グループのファンとしてはやはり食いつかざるをえなかった。「アメ女国民投票」の結果発表の回では、ランクインしたメンバーの名前を書き出した表が一瞬画面に映っていたけど、思わず、その一人ひとりのプロフィールをでっちあげたくなったことはナイショだ。

ただし、不満な点がまったくなかったわけではない。登場するオタクたちの描写は、いまいちステレオタイプだなと思ったし、アキの高校(潜水土木科)の先輩で、のちに恋人となる種市(福士蒼汰)にはあまり共感を持てなかった。

その理由は、まがりなりにも芸能人であるアキ(しかもCMの契約上「恋愛禁止」を固く禁止されていた)とつきあうにもかかわらず、種市にはその自覚があまり感じられなかったからだ。アキからの告白を受けて、それを受け容れるか、それともあくまでアキの夢を応援するため身を引くか、種市が葛藤するさまを見たかった……というのが、アイドル好きの私の本音である。

いや、ちょっと待てよ。そもそもアキは、種市が応援するに足る夢を芸能界で追いかけていたのか? もちろん女優という夢はあったのだけれども、劇中では、チャンスを与えられながらもアキは女優になりきれなかったことが描かれていた。それは憧れの鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)と、映画「潮騒のメモリー」で親子という設定で念願の共演を果たしたときのこと。撮影を終えて、アキは鈴鹿から「(女優には)やっぱり向いてない」と言われつつも、「いま日本で天野アキをやらせたら、あんたの右に出る女優はいません」と太鼓判を押される。

思えば、女優になりきれないアキと、私生活をひた隠しにして、あくまで女優として生きる鈴鹿とはあまりに対照的だった。アキは、人から演出されることを受けつけないし、自分を演出することもできない。いくら“自然体”を売りにしたアイドルでも、そこにはやっぱり“自然体に振る舞う”という演出がはたらいているわけで、「女優に向いてない」と言われるのも当然だ。

プロの芸能人は、自分を演出しつつ成長していかなければならない。それができないアキは、プロのアイドルや女優にはどんなに頑張ってもなれなかったんだと思う。そのことは、震災後に芸能活動を休止し北三陸に戻ってから、アキ自身が認めている。そう、「プロちゃんにはなれねえし、なりだぐねえ」というセリフだ。

面白かったのは、「プロちゃんにはなれねえ」アキに引っ張られるように、周囲の人たちが立て続けに、アマチュアに立ち返ろうとするところだ。あの、売り出し中のアイドルたちとひとつ屋根の下に暮らしながら、手を出すことも女性に幻滅することもなかった、プロの芸能マネージャーの水口(松田龍平)が、世話になった人たちへのあいさつもそこそこに北三陸で琥珀掘りを再開する。鈴鹿ひろ美も、一から歌を習得しようとこっそりボイストレーニングに通い始める。ついには、劇中のドキュメンタリー番組「プロダクトA」でプロフェッショナルぶりを見せていた太巻プロデューサー(古田新太)までもが、準備中の新生・海女カフェを見て、「プロでも素人でもないアマチュアのなせるわざ」と賛美してみせた。

こうした一連の流れは、「プロジェクトX」や「プロフェッショナル 仕事の流儀」などといった番組(いずれも前出の「プロダクトA」の元ネタと思われる)でプロフェッショナル幻想を振りまいてきたNHKに対し、まるで水を浴びせかけるようで痛快だった。もちろん、プロにはプロの凄味があるわけで、そのへんは、鈴鹿ひろ美のリサイタルでのかつ枝(木野花)の「さすがプロだなあ」というセリフでちゃんとフォローされていたけれども。

「あまちゃん」全編を通して貫かれていたのは、アキの「自分が楽しいからやる」という原則だ。それは海女になるときも、潜水土木科に入るときも、上京してアイドルになるときも、そして北三陸でまた海女に戻るときも変わらなかった。それでいて、単なるエゴイズムに終わることなく、自分が楽しんでやっていることが、周囲の人々を楽しませることにつながっているのがキモである。それこそ、まさに「アマチュアのなせるわざ」だろう。

クドカンが「あまちゃん」で提示してみせたアイドル像は、私たちが日頃目にしている“商品”としてのアイドルではなかった(その意味ではアキは“規格外”のアイドルだった)。不特定多数のファンを相手にするのではなく、小さな町で、ファンの顔が見える範囲内でこそ輝く存在。劇中のGMTの設定など、現実のアイドルにかぶせすぎではないかとも感じたけど、それは、アキが既存のアイドルとは別種のアイドルであることを強調するためにも必要だったのだと、いまにして思う。私がアイドルファンとして違和感を抱いた部分も、クドカンにそういう意図があったのだと考えれば納得がゆく。

結局、クドカンはアイドルファンの気持ちなんてちっともわかっちゃいなかったんだ! でもそれは「あまちゃん」というドラマの瑕疵にはけっしてなっていない。むしろそれでよかったのだと思う。

いや、やっぱりひとつだけ。何で最終回で、「潮騒のメモリーズ」が再結成したお座敷列車に、「喫茶アイドル」店主の甲斐さん(松尾スズキ)を招待してあげなかったんだよ! 2009年の「潮騒のメモリーズ」の映像を水口から見せられて、「ここにいたかったよ!」って悔しがってたんだからさあ。

と、すっかりアイドルファン目線で見た「あまちゃん」レビューに終始してしまったが、これ以外にもまだまだとりあげたいことがある。そんなわけで、明日は震災の描かれ方などについて振り返ってみたいと思います。いましばらくお付き合いください。
(近藤正高)