「そして父になる」
是枝裕和監督、福山雅治、尾野真千子、真木よう子、リリー・フランキー、二宮慶多、黄升ゲン(ゲンは火へんに玄)。9月28日より全国ロードショー。出演者、撮影、是枝裕和インタビュー、重松清・井上由美子・落合恵子のテキストなど、パンフレットも充実。配給/GAGA

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6年間育てた息子は、病院で取り違えられた他人の子だった。
観終わって、電車に乗って、パンフレットを眺めていると、また涙がこぼれおちてきた。

是枝裕和監督『そして父になる』。
第66回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞。
10分以上のスタンディングオベーションを受け、スティーヴン・スピルバーグは「初めて観た時から本作が賞に値するという確信は揺るがなかった」と絶賛(スピルバーグのドリームワークスがリメイク交渉中→決定)。ニコール・キッドマンは「後半1時間、涙が止まらなかった」と言った。
こういう絶賛の言葉が、宣伝として流れてくると「ホントかよ」とついつい思ってしまうが、ホントだった。
劇場でも、泣く声を抑えようとする音が、あちこちから聞こえてきた。
後半1時間どころじゃなかった。
観終わった後も、思い出して泣いてしまう。
それは、その場だけで泣かせようとしていない作品だからだ。

6年間育てた息子が、他人の子だったら?
自分だったらどうするだろうか?
誰もが簡単に答えを出せない(出せたとしても映画を観るとまた考えさせられるだろう)問いを、ていねいに描いた120分だ。
観客は、ふたつの家族と寄り添うことになる。

福山雅治が演じる野々宮良多は、一流大学を出て、一流企業に勤め、高級マンションで妻と息子と暮らす。
テレビドラマ「ガリレオ」や「龍馬伝」でみせたカッコいいキャラクターの福山雅治ではなく、ひとりの、エリートであり傲慢ですらある人間としての父親を見事に演じた。
取り替えられていた相手側の家族の父親・斎木雄大を演じるのは、リリー・フランキー。
三人のこどもと妻がいて(ボケて、こども返りしたおじいちゃんもいる)、電気屋を営んでいる。
この親父が、すごくいい。
妻「五人でしょ、こどもは。私一人じゃめんどう見きれませんよ」
父「え、五人目って俺か?」
といった会話を交わすような、ぐーたらだけど、こどもたちとよく遊び、よく笑う父親。

ふたつの家族が会う何度目かのこと。
ショッピングセンターのキッズパーク。
ひとしきりこどもたちと大騒ぎして遊んだ斎木雄大が、「いやー、あかん、あかん」と言いながら、座ってる野々宮良多のところへやってくる。
「あかん、しんど。せめて四十までに作っとくんやった。からだがもたん」
遊んできなよ、と誘う雄大。断る良多。
「良多さんも、俺なんかより若いんだからさ。もっと一緒の時間作った方がいいよ、こどもと」
と言う雄大に、
「まあ、いろんな親子の形があっていいんじゃないですかね」
と良多は返す。「うちは一人でなんでもできるようにって方針なんですよ」
雄大は「方針ならしょうがないけど」と前置きして、「そういうとこ、めんどくさがっちゃダメだよ」と言う。

というように、ふたつの家族、ふたりの父親は、対照的に描かれる。

野々宮家では、こどもは一人で風呂に入るが、斎木家では、親父とこどもが一緒に入る。
斎木雄大は、風呂場の水を手ですくい口に含んで、胸をポンポンと指さす。こどもが胸を押すと、ぷしゃーっと水を吐き出して、こどもの顔にかけて、大笑い。こどもも笑う。
そういった明るさがある。

都心のホテルのような高級マンション、やりがいのある仕事、ひとりっこ、経済的余裕のある家庭、という野々宮家の、ある意味では、少し前まで我々が目指していたであろう家族の姿が少し寂しく思えてくる。
観ている側は、お金持ちじゃなくても、明るく、こどもが3人いて、おじいちゃんがいて、親父もこどもみたいな大家族である斎木家のほうが、ノスタルジックな感傷も込みで、楽しそうに思えるし、こどもが幸せに思えてくる。

もちろん、単純に図式化して描いているわけではない。
福山雅治が演じる野々宮良多は、傲慢に見えると同時に、弱い人間にも見える。
負け知らずの人生を送ってきた父親に、病院でこどもを取り違えられるという降って湧いた災難。
それにどう対峙しようかと悩み苦しんでいる男だ。

後半、堪えられず泣いてしまったが、ただスッキリするための涙とは違う。
希望は描かれるが、最後に単純な救いを提示するわけじゃない。
観終わっても、自分に近いところにいつまでも「想い」が残る。
だから、映画館を出ても、涙がこぼれてくるし、今もこうやって書いていると、思い出してうるうるしてしまう。

エンディング曲は、グレン・グールドが演奏する「ゴールドベルク変奏曲〜アリア」。
おそらく、グールドが生涯を閉じる約1か月前に録音されたバージョン。
機嫌よくハミングしているグールドの声が聞こえる。
何かから解放されたような自由自在な演奏だ。
(米光一成)