バンコク市内をたくさんのバスが走る。渋滞はいつもの風景【撮影/DACO編集部】

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バンコクの日本語情報誌『DACO』の発行人、沼舘幹夫さんは在タイ25年。その沼館さんがバンコクで出くわした「忘れられない1日」を回想します。前回に続いて、バンコクで脳溢血で倒れた中山さんのその後を報告します。

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手術後、タイ人妻は必死に看病していたが……

 手術後、病院で中山さんと対面した。顔がむくみ表情は視点が定まらず遠くを見ていた。話しかけると意味はわかるのか、懸命に自分の意思を伝えようとするのだが、それが叶わず頭を傾げながら照れ笑いをする。半身麻痺のせいか、動かない腕はベッドに紐でくくられていた。

 中山さんのタイ人の奥さんが枕元にいた。奥さんは中山さんと結婚し、日本で暮らしてマミちゃんをもうけた。奥さんは東京でタイ式マッサージ店を経営している。

 マミちゃんが小学校に上がるときに家族でタイに移り住むつもりだったが、店が順調だったようで中山さんとマミちゃんだけがタイに来た。そして中山さんはダコ編集部の仕事を手伝いはじめた。中山さんは東京でデザイン事務所を主宰していただけあって、仕事は早く正確でなにより美しかった。

 奥さんは毎日バスで病院まで通った。「タクシーに乗るとめげるね。バスはバンコクで生活しているたくさんの人の姿が窓の中から見下ろせて、気が休まるの。私も元気ださなきゃって」。

中山さんは日本に帰国、そして離婚

 数日後、日本から中山さんのお母様が見えた。厳しそうな方だった。中山さんを日本に連れて帰るという。保険に加入できなかった中山さんに代わり、私が立て替えた手術代を真っ先に返してくれた。

 帰国する前の日、中山さんと奥さんとお母様を元気づけるために、編集部のタイ人スタッフ主催で、中山さんが買った奥さんの妹の家でパーティーを開いた。中山さんは無理してつきあったようで、翌日体調を悪くし、お母様は私にかなり立腹だった。

 空港で最後に「これからが大変ですね」とぽつりと言うと、お母様は「やっとわかりました?」と答えた。その言葉は、私を責めるのではなく、これから厳しい現実に向かうお母様の悲壮な決意だったと思っている。

 中山さんがタイを去った後、残された我々日本人スタッフは、タイで自分が中山さんの立場になったらどうするか話し合った。

 他人に迷惑を掛けたくないからうんぬん……。宗教的な話にまで発展していった。正常な思考ができる頭だからいろいろ考えられる。中山さんがここにいたら、ただ笑っているだろう……。どちらが幸せなのだろう。

 奥さんとマミちゃんはしばらくタイにとどまり、バンコクの中山さんの生活臭を少しづつ拭い取っていた。数週間後、奥さんから電話があり、中山さんと離婚すること、マミちゃんは日本で中山さんたちと一緒に暮らすことを聞かされた。お母様と奥さんの間で決まったことのようだが、奥さんは憤慨していた。

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