ハンガリー・ブタペストで開かれたレスリング世界選手権、吉田沙保里にとって最大の強敵は、『新ルール』と見られていた。IOC(国際オリンピック委員会)によって中核競技から除外されたレスリングは、オリンピック種目として存続するため、「よりわかりやすく、エキサイティングな試合展開」を目指してルールを改正。なかでも重要な点は、試合時間を「2分3ピリオド」から、アテネオリンピックまで採用されていた「3分2ピリオド」のトータルポイント制への変更である。

「たかが1分。フルに戦えば同じ6分ですが、ベテラン(現在30歳)の吉田にとってはかなりキツイでしょう。各ピリオドのラスト1分、バテたところで本来のディフェンス力を発揮できるかどうか......。疲れてくると、それまでは守れていた相手の攻撃に堪えきれなくなる。そこがポイント」

 大会前、吉田が所属するALSOKの大橋正教監督は、そう懸念していた。

 事実、初めて新ルールで戦った今年6月の全日本選抜選手権・決勝では、猛烈な勢いで吉田を追い上げる村田夏南子(日大)に、まさにその点を突かれた。村田は吉田の高速タックルを受けながらも、失点を最小限に食い止め、後半勝負。吉田の動きが鈍くなってきたところでグラウンドに持ち込み、ポイントを獲得した。

 結果は、ラスト13秒、吉田がオリンピック3連覇の意地を見せて逆転勝ち。世界選手権代表の座は譲らなかったが、吉田は試合後、次のようにコメントした。

「バックを取られてローリング。アッという間に5点取られてしまいました」

 新ルールでは、技のポイントも改正された。相手をテイクダウンしてバックを取ると、これまで1点だったのが2点となった。場外に出た場合の1点、反則による1点と区別し、攻撃によるポイントを重視するためだ。これにより、前半タックルを受けて失点しても、後半グラウンド勝負に持ち込めば、逆転は可能となった。

 今大会前、グラウンド技を得意とするオリンピック3連覇中の伊調馨は、「いいですね。じっくり攻められるから、やりやすいです。自分にとっては有利だと思います」と、新ルールを歓迎していた。ただ、吉田にはスタミナという一抹の不安が残っている......。新ルールによって、レスリングスタイルがまったく異なるふたりの女王の明暗は分かれるのか、その点に注目が集まった。

 吉田を大学入学時から指導し続ける栄和人日本代表女子監督は、「新ルールの時間変更は日本に有利」と喜びながらも、この夏、吉田には徹底的な走り込みを指令した。前述した大橋と、同じ懸念を抱いていたからだろう。

 今夏、吉田は新潟県十日町の山中に設けられた『櫻花レスリング道場』前の急坂で、10歳近く離れた若手選手たちの先頭に立ち、必死の形相でトレーニングを続けた。人呼んで、「金メダル坂」――。今から10年以上も前の2002年、世界選手権・初出場初優勝を目指し、「この坂を登りきれば、金メダルがつかめる」と歯をくいしばって何度も何度も駆け上がった坂は、世界大会連覇の原点だ。レスリング界のみならず、国民栄誉賞を受賞し、スポーツ界全体の頂点に立ってもなお、吉田はそこに戻り、自らを追い込んだ。

 その結果、ブタペスト入りした吉田は、「やるだけやった」という充実感からか、終始、笑顔でリラックスした表情を浮かべていた。そして、栄監督や大橋監督が、「調整は万全。ロンドンオリンピック以上」と認める体調で試合に臨み、改めて世界にその強さを見せ付けたのである。

 1回戦、ルーマニアのパバル・アナ・マリアを相手に、得意のタックルはもちろん、相手の攻撃を冷静に見切ってのカウンターでもキレを見せ、7−0のテクニカルフォール勝ち。2回戦では、ロンドンオリンピック直前のワールドカップで連勝を止められたロシアのバレリア・コブロワ(旧姓ジョロボワ)に、これまた7−0のテクニカルフォール勝ち。続く、モンゴルのサンデフとの3回戦、ウクライナのイリナとの準決勝もテクニカルフォール勝ち。吉田はまったく危なげなく、決勝に進出した。

 そして金メダルを賭けて戦う相手は、スウェーデンのソフィア・マットソン。ロンドンオリンピックこそ7位に終わったが、世界選手権では過去に51キロ級優勝、59キロ級2位の実績を持ち、今年に入ってからは国際大会・5大会連続優勝。勢いに乗って決勝まで駒を進めてきた。しかし吉田は、タックルを警戒する相手に対し、タックル以外の技でポイントを重ね、5−0の圧勝。全試合失点ゼロで優勝を決めた瞬間、吉田は両手を広げ、さらに指を1本突き立て、世界選手権の優勝回数「11」を示し、自ら偉業を祝福した。

 ライバルたちが唯一の死角と目論んだスタミナ問題をまったく感じさせなかった吉田は、「新ルールを自分に合わせることができた」と、試合後、誇らしげに語った。

「ピリオドの時間が長い分、楽ではないですけど、もしポイントを取られても取り返せる。今までは1度の失敗も許されませんでしたが、逆にガンガン攻められます。試合運びに余裕が持てました」

 また今後は、オリンピック競技存続に向け、FILA(国際レスリング連盟)が行なう階級変更も、吉田を後押しするだろう。

 これまで世界大会で、男子グレコローマンスタイル・フリースタイル、女子フリースタイルはそれぞれ7階級だったが、オリンピックで実施されるのは、女子のみ4階級に限られていた。だが、IOCから男女不平等を指摘されたFILAは、3スタイルすべて6階級とすることを約束している。正式決定は10月になる模様だが、女子は48キロ級・51キロ級・55キロ級・59キロ級・63キロ級・67キロ級・72キロ級の7階級から、48キロ級・52キロ級・56キロ級・61キロ級・66キロ級・72キロ級の6階級へ変更される可能性が高い。

 これまで吉田は、ほとんど減量することなく55キロ級で戦ってきたが、変更後は52キロ級に下げることをすでに明言している。レスリングの計量は試合前日の1回のみ。ほとんどの選手はそれに合わせて減量し、計量後は猛烈に食べ、もとの体重に戻して戦っている。もともと55キロあるかないかの吉田は、常に3〜4キロ重い敵と戦ってきたわけだが、52キロ級となれば立場は逆転するだろう。モントリオールオリンピック金メダリストの高田祐司・日本レスリング協会専務理事も、「階級変更は吉田を後押しする。パワーを生かせる」と断言している。

 現役選手でありながら、国内はもとより、世界を駆け回って獲得した「2020年東京オリンピック招致」「レスリング・オリンピック存続」に続き、最後は自らの「世界選手権優勝」で締めくくった、本人曰く「V3」――。自身の世界記録を更新する世界大会(オリンピック・世界選手権)14連覇を達成した吉田沙保里は、「リオにつながる」と晴れ晴れとした顔で告げ、すでに次なる頂点を目指し始めている。

宮崎俊哉●文 text by Miyazaki Toshiya