『安国寺恵瓊』

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諸兄姉は、安国寺恵瓊の名を聞いて何を思うであろうか。多くの方は、戦国末期の毛利氏の外交僧、あるいは石田三成、小西行長とともに関ヶ原の西軍首謀者として処刑された大名と答えるだろう。岡山御出身の方なら、羽柴秀吉の備中高松城水攻めの折に城主清水宗治に面会して毛利氏の苦しい実情を語り、暗に切腹を促した使僧と言われるかもしれない。禅林に詳しい方ならば、彼が京都五山の一つ東福寺の二百二十四世の住持であったことを指摘するかもしれない。あるいは彼に対して侫僧というような悪い印象をお持ちの向きもあろう。

本書『安国寺恵瓊』(吉川弘文館人物叢書)は、河合正治博士(広島大学名誉教授)が、恵瓊の生涯をまとめたものである。著者によれば、恵瓊の不評は、徳川治下での悪評価に加えて毛利氏の事情によるところが大きい。関ヶ原で敗れた際にすべての罪を恵瓊にかぶせて何とか防長二州で存続を得た毛利氏にとって、恵瓊は思い出したくない人物であった。しかし著者が説くように、恵瓊が秀吉の天下一統の事業を大いに助けたこと、厳島の千畳閣や広島の不動院金堂をはじめ多くの文化財を残したことなどは正しく評価されねばならない。

最終的には伊予6万石の大名に

恵瓊は、安芸の守護武田氏の出で、幼少時に同氏が滅亡すると安芸安国寺(現不動院)に逃れ禅僧になった(後に同寺の住持となり、安国寺恵瓊と呼ばれるようになる)。長じて本山東福寺に上り修行を重ねた。当時禅宗と武家のつながりは深く、恵瓊の師である東福寺の住持恵心は毛利氏と密接な関係にあり、毛利のために諸国の大名との外交や中央政界工作に活躍していた。恵瓊は師の下で外交僧としても修行を積み、やがて毛利氏の外交僧として縦横無尽の活躍をするようになり、織田・毛利両氏間の交渉を通じて、恵瓊は秀吉を深く相識る。

この頃恵瓊は、信長と秀吉について驚くべき予言をしている。「信長之代(は5年、3年は持つだろうが、いずれは)高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候、藤吉郎さりとてはの者にて候」と。これが本能寺の変の10年前であるから恐れ入る。恵瓊には先見の明があった。前述の高松城の水攻め直後の「中国大返し」の際には、小早川隆景とともに対秀吉融和論で毛利氏内をまとめている。勿論恵瓊としては毛利氏の将来を心配してのことだったろうが、この頃から彼は天下一統を目指す秀吉の立場に近付いていく。四国・九州の役、文禄・慶長の役を通じて豊臣政権の直臣という立場が濃くなり、最終的には伊予6万石の大名になる。

自身参画して成し遂げた天下一統豊臣体制への思い

他方著者は、恵瓊の人生の幅の広さを指摘する。禅宗の最高位である五山の住持の地位に上がり、東福寺二百三十七世住持霊新をはじめ弟子にも恵まれた。また多くの寺院建築に関与して大きな功績を残している。

では何故、先が見え人生の幅が広い恵瓊が、関ヶ原で敗軍に与したのであろうか。恵瓊は、石田三成と結んで毛利輝元を西軍の盟主に担ぎ出すが、勝ち目なしとする毛利の重鎮吉川広家を説得できず、広家は家康に内通する。恵瓊は往年の機略を失い、為すところなく破滅したように見える。積極性を欠いた恵瓊の行動について著者は、既に齢六十三歳に達していた恵瓊は、不利はわかりすぎていたが、秀吉の恩顧への感情が先だって現実的に割り切る行動ができなかったとする。

筆者の見解もこれに近い。三成と袂を分かち世俗を完全に捨てる途もあったのにそうしなかったのは、恵瓊自身参画して成し遂げた天下一統豊臣体制への思い故であろう。広家の内通に対策を講じなかったのは、西軍必敗を見通して毛利氏のために東軍にも保険をかけようという思いもあったのかもしれない。いずれにせよ、凡そ先見の明とは、合理的な行動を貫徹する意志の力を伴わなければ意味がないものらしい。

経済官庁(?種職員)山科翠

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