『半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義』(文春ジブリ文庫)
映画「風立ちぬ」の完成直後に2回にわたり、宮崎が自身の仕事場に半藤を招いて行なった対談を完全収録。「風立ちぬ」の試写会で、初めて自分の作品を観て泣いたという宮崎。はたしてその真意は? 本書ではそれについてもあきらかにされている。

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「僕はこの前、文藝春秋の元編集長だった半藤一利さんという方とお話ししてですね、その方は83(歳)でしたが、背筋が伸びて頭もはっきりしていて、本当にいい先輩がいると(思った)。僕も83になって、こうなっていたらいいなと思うものですから、『あと10年は仕事を続けます』と言っているだけでして。続けられたらいいなと思いますが、いままでの延長(線)上には自分の仕事がないだろうと思っています。僕の長編アニメーションの時代ははっきり終わったんだというふうに……。もし自分がやりたいと思っても、それは年寄りの世迷い言であると片づけようと決めています」

これは、先週金曜(9月6日)に行なわれた、宮崎駿の引退会見での発言である。宮崎は半藤一利と、自身の最新作である「風立ちぬ」が完成したのち対談を行なっていた。その様子は、「文藝春秋」2013年8月号やNHK教育の番組「SWITCHインタビュー 達人達」(8月3日放送)で公開されたのに続き、文春ジブリ文庫の一冊として出た『半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義』に完全収録されている。

じつは本書の最後でも、宮崎は半藤と会って「83歳くらいまで生きるのは悪くない」と思ったと、本人に明かしている。それを受けての半藤とのやりとりはいま読むと、すでに引退をほのめかしているようで興味深い。

《半藤 ヨーシ、こうなったらうんと長生きして、やっぱりもう一作、宮崎さん、待とうじゃないの(笑)。
宮崎 いやいや、それはちょっと待ってください(笑)》

本書はまた、「風立ちぬ」を観たあとでのおさらいとして読むこともできる。もちろん、作者の言うことが必ずしも絶対ではないし、「風立ちぬ」という映画は、そうしたものにとらわれずさまざまな読み解き方ができるからこそすばらしいのだが。そのことは、ここ数カ月、いろんなライターが同作について書いてきたことからもあきらかだ。

でも、あの映画を楽しんだからには、やはり作者の言い分も聞いておきたい。それに、宮崎の対談相手が半藤一利だというのもそそられる。半藤といえば前出のとおり文藝春秋の元編集者であり、昭和史研究でも知られる人物だ。「風立ちぬ」で細かく描かれた大正から昭和初期の風景について、さらに詳しく解説するのに、これ以上うってつけの相手はいないだろう。

半藤は昭和5(1930)年生まれなので(ちなみに宮崎駿はほぼ10歳下の昭和16年生まれ)、彼自身が昭和の時代をほぼ丸ごと生きた証人ともいえる。何しろ戦時中には東京大空襲を体験しているし、さらにさかのぼって戦前の幼少期には、近所の大学生に連れられて渋谷までハチ公を見に行ったというのだから。ここでいうハチ公とは銅像ではなく、本物である。銅像ができたのは昭和9年だけれども、当時まだハチ公は生きていたのだ。半藤は幼いながらにも、ハチ公の頭をなでて、せんべいか何かをやったことをたしかに記憶しているとか。

証人といえば、宮崎駿のお父さんもすごい。大正12(1923)年、9歳で関東大震災に遭遇したお父さんは、本所の陸軍被服廠跡に避難して生還したという。被服廠というのは、半藤の説明を引けば、陸軍の軍服などをつくっていた工場で、震災前にこれが赤羽に移転、跡地は公園として整備される予定だった。が、震災発生時、ここに大勢の人々が家財道具などを担いで避難してくる。そうした荷物へ火の粉が燃え移り、たちまちのうちに猛火となって竜巻のような旋風を巻き起こし、避難民たちを飲みこんだ。死者の数はじつに3万8千人ともいわれる。

そんな大変なところに宮崎のお父さんは避難したにもかかわらず、どうやって助かったのか? くわしいことは結局わからずじまいのようだが、もしこのときお父さんが死んでいたら、宮崎駿は生まれてこなかったことはたしかである。

「風立ちぬ」の主人公には、このお父さんのイメージも反映されているようだ。というのも、お父さんは劇中の堀越二郎と同じく、最初の結婚相手を結核で亡くしているからだ。

その後、お父さんは再婚して、その相手とのあいだに宮崎ら4人兄弟を儲けている。ただ一方では、かなりの遊び人でもあったようだ。宮崎はそんな父を反面教師と見ていたともいう。なかでも、煙草をめぐる話がおかしい。少年時代より父から「おまえ、まだ煙草も吸わないのか」などと言われていたことに反発した宮崎は、自分は絶対こういう男にはなるまいと誓い、20歳まで煙草は吸わなかったとか。ツッコミどころはこの先である。

《で、成人してから吸ったら、「ほんとにこれは気持ちいい」と思いまして、それ以来一度もやめようと思ったことないです。ただし吸いすぎると不味くなるんですよね。(中略)美味しく吸うためには本数を減らすことだ、とある日気がついて、煙草に番号を書きまして、十本入る万年筆のカートリッジに入れていました。吸う本数をまもろうと努力したんですけど、これはダメでした。すぐ継ぎ足すから(笑)。だからこれもあきらめました》

お父さんの話から、宮崎自身の禁煙話になっとりますが(笑)。このエピソードなど、「風立ちぬ」の喫煙シーンをめぐって巻き起こった騒ぎを思い出しながら読むと、味わい深いものがある。

宮崎は本書において、そんな笑い話を交えつつ両親の人生についてかなりみっちりと語っている。半藤はそれを聞きながら、《なるほど、それで少しわかりましたよ。宮崎さんがこんどの映画で、灰色といわれている昭和の時代にこだわって描こうとしたわけが。つまりその時代を生きたお父さんお母さんを何とか理解してみようとされたのですね》と返す。とすれば、「風立ちぬ」は宮崎駿が自らのルーツをたどった作品ととらえることも可能かもしれない。

半藤は、映画におけるさりげない場面についても、鋭い指摘をしてみせる。なかでも私が、そういうことか! と驚いたのは、名古屋の工場でつくった戦闘機を、各務原(岐阜県)にある陸軍飛行場まで牛で運ぶシーンについての考察だ。半藤はこれについて、戦前の日本が《トラックでの輸送も、そのための舗装道路も、最後まで実現できなかった。非常に象徴的なシーンです》と喝破している。

こうした時代のなかにあって、堀越二郎もまた、最後には仕事がほとんどできない状況へと追いこまれたという。そこからいまの私たちは何を学ぶべきか? 宮崎は《負け戦のときは負け戦のなかで一生懸命生きるしかない、というようなことでしょうか》と語る。

じつはこの発言の少し前に彼は、年をとってよく聞かれるようになったという「この国はどうなるでしょうか」との質問に対し、次のような回答を示していた。

《若い人たちはやたら「不安だ、不安だ」と言うんですが、ぼくは「健康で働く気があれば大丈夫。それしかないだろう」と言い返しています。「不安がるのが流行っているけど、流行に乗っても愚かなる大衆になるだけだからやめなさい」と。「不安なときは楽天的になって、みんなが楽天的なときは不安になれ」とね。よくわかんないけど(笑)》

これは、前出の「負け戦のときは〜」という発言にも通じるものがあるだろう。そればかりか、「風立ちぬ」の「生きねば」というキャッチコピーをも思い起こさせる。アニメーション作家としての半世紀にわたる宮崎の歩みは、ときには仕事を干されたりと、けっして平坦なものではなかった。それでもくじけずに仕事を続けてこられたのも、こうした姿勢があったからこそだろう。

本書ではこのほか、夏目漱石(半藤の妻は漱石の孫にあたる)やアニメ制作の現場の話など、話題があっちに行ったりこっちに行ったりして面白い。このあたりは同じ対談でも、雑誌やテレビでは味わえなかった醍醐味だ。

手前ごとながら、本書を読んでいてうれしかったのは、「風立ちぬ」に出てくる「登戸」行きの電車が小田急の電車だとはっきりと確認できたこと。宮崎はこの場面を描くにあたり、昭和初年の電車のドアの開け閉めはどのように行なっていたのか、小田急電鉄に直接問い合わせたという。

ただ、以前、エキレビ!に寄稿した記事で私は、震災後の菜穂子の実家を「小田急の成城学園前」が最寄駅と書いたが、これについて映画館で購入したパンフレットには、同じ小田急沿線ではあるものの、もっと新宿寄りの代々木上原であると記されていた。

また、同じ記事では、《「風立ちぬ」の劇中、堀越二郎は東京から名古屋に赴任する列車内で、線路の上を歩く人々を目撃する。彼らは都会で職を失い、郷里である農村まで金がないので歩いて向かっていた》と書いたものの、後日映画を見返したところ、まったく逆で、線路を歩く人々は、郷里である農村に帰るのではなく、職を求めて都会に向かっていることがわかった(本庄のセリフで説明されている)。以上の2点、お詫びして訂正するしだいである。(近藤正高)