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我々は生まれながらに、人権を持っている。そしてそれは、人が人である以上、当たり前の権利である。だが、今からそう遠くない昔、その人権を無視した残虐で非人道的な拷問が、当たり前のように行われていた時代があった。今回は、あえて人類のその「負の歴史」とも言える、刑罰・拷問器具を展示している「明治大学博物館」を紹介する。

○3つの博物館が統合され、今の明治大学博物館に

学生の街として名高い東京都・御茶ノ水駅から徒歩3分。「権利自由、独立自治」を建学の精神とする明治大学の、「生涯学習センター」としての役割を担うアカデミーコモン地下に、明治大学博物館は存在する。

博物館は3部門から成る。

1951年(昭和26年)と1952年(昭和27年)にそれぞれ設置された「商品博物館」と「考古学博物館」。そして、最も古い1929年(昭和4年)に設立された「刑事博物館」。その3博物館が、それぞれの部門として統合され、2004年に今の形となった。

3部門の中で異彩を放つのは、やはり「刑事部門」だろう。国内でここにしかないという「ギロチン」や「ニュルンベルグの鉄の処女」などの拷問器具から、御成敗式目や今川仮名目録などの法制史料まで。レプリカとはいえども、文化的価値の非常に高い刑法にまつわる展示品が、整然と並んでいる。

○モノクロ写真の時代に、実物を見てもらう「社会に開かれた」博物館を目指す

現在の前身にあたる刑事博物館が開設された1929年当時、国内には博物館自体がほとんど存在しなかった。だが、刑事博物館の生みの親となった大谷美隆法学部教授には、確固たる理念があった。ヨーロッパ留学の際に訪れた、刑事関係の博物館を日本に設立するという理念だ。

それは「刑罰は受刑者に対する教育を第一」とし、「矯正処分の重要なること」を訴えていた、当時の明大における刑法教育に由来する。前近代社会における残虐で非人道的な拷問・刑罰のあり方を、学生が批判的な見地から考えることにより、その理解を促進、深めさせることができれば―。

そのためには、人類の“負の歴史”を担ってきた実物を目の当たりにすることが最善だが、実物は手に入らない。大谷氏はレプリカ作りに奔走した。

「メディアが未発達で、写真もモノクロだった時代に、刑事博物の実物を見せるという点は非常に意義がありましたし、教育としても先進的だったと思います」。明治大学博物館の学芸員・外山徹さんは説明する。

苦心の末にレプリカ制作を軌道に乗せた後、「大学は社会に開かれていないといけない」という明治大学の考えのもと、学生だけではなく庶民にも広く学んでもらうべく、1929年に刑事博物館が設立された。その展示物は今日、毎年約8万人もの来訪者に「人権とは何か」という無言の問いかけをしている。

○見せしめのための厳罰……「10両盗むと首が飛ぶ」と言われた江戸の刑罰

刑事部門の展示物は主に「江戸時代の刑罰・拷問」「海外の刑罰・拷問」「国内の法」に分類されている。

江戸時代の刑罰は、見せしめのための厳罰主義だった。刑罰体系は複雑で、死刑だけでも罪状に応じて、軽い方から「下手人」「死罪」「火罪」「獄門(ごくもん)」「磔(はりつけ)」「鋸挽(のこぎりびき)」と区別した。

幕府法では主殺し、夫殺し、親殺し、師殺し、関所破りなどが重犯罪とされた。特に主殺しの加害者には、「鋸挽(のこぎりびき)」という最高刑が科された。それは、東京・日本橋の広場で、首だけが地面から出るように埋められた箱の中で2日間さらし者にされた後、市中を1日かけて引き回され、最後に刑場で磔(はりつけ)にされ、絶命の有無に関係なく、20〜30回ほど槍(やり)で突き刺されるという、残虐非道な刑だ。

そして、その刑は女子供とて関係なかった。

現在でも刑罰として残る絞首刑は、律令(りつりょう)国家時代から存在していた。明治時代は、「絞罪柱」という柱にくくりつけられ、柱の枕木に開けた穴に縄を通し、その先におもりを付けていた。

○自白を引き出すための拷問も横行

また、拷問には、被疑者のひざの上に一つ約50kgもある石を乗せる「石抱き」やあまりの苦痛に失神する者も多かった「釣責(つるしぜめ)」などがあった。

江戸幕府の刑事裁判は、自白を強要して、しばしば拷問を行った。特に重罪犯の疑いがある者には、両腕をねじ上げ、縄を回して背後で縛り、天井から宙づりにするという「釣責(つるしぜめ)」が行われていたケースもあったという。

○ギロチンと鉄の処女……国内で唯一のレプリカが存在

「海外の刑罰・拷問」では、近代ヨーロッパの処刑器具として名高いギロチンや、伝説上の中世の処刑道具であるニュルンベルグの鉄の処女がひときわ目を引く。

罪人が痛みを感じることがないよう、「人道的な」処刑道具として用いられていたギロチン。制度としては、ほんの最近の1981年まで存在していたことを知っている人は、どれだけいるのだろうか(実際の断首刑は、それよりかなり以前から行われていなかった)。

○罪人のための捕者道具コレクションと、規範としての法制史料も豊富

「国内の法」に関しては、江戸時代に容疑者を捕捉したり、自らの身を守ったりするためのコレクションや御成敗式目、公事方(くじかた)御定書などの書物を見学できる。

捕者道具は元来、合戦場(かっせんば)で敵の武将を生け捕りにする際に用いられていた。しかし、江戸時代に入ると、罪人を傷つけずに逮捕する道具として利用されるようになった。相手の体を壁などに押し付けるための「突棒(つくぼう)」、腕や後ろひざを攻めて、押さえつけるように使った「刺又(さすまた)」、着物の袖などを巻き取るようにして相手を引き倒した「袖搦(そでがらみ)」は「捕者三道具」と呼ばれていた。

十手や捕縄のコレクションは、色やデザインが微妙に異なり、興味深い。

法制をまとめた史料も揃(そろ)う。古くは律令(りつりょう)時代の律から、鎌倉時代の御成敗式目や東日本最古の分国法・今川仮名目録など、多様な種類の史料が一堂に会している。

○「過去の犠牲があってこそ今がある」という思いで見てもらいたい

江戸時代は、被害者の報復措置(そち)を防ぐため、国家が刑罰という形で報復を代行した。それは「お上が絶対」を意味する。

当時は儒教的な序列が重要視されていたため、夫殺しの大半には、「国家による正義」の名の下に、最も重い刑である「鋸挽(のこぎりびき)」が科せられた。そこに情状酌量の余地はなく、むごたらしい刑罰の中で、当事者の人権は失われただろう。

翻って現在の我が国はどうだろうか。老老介護に疲れ果て夫を殺害したり、DVに耐えられなくなった中で、衝動的に夫を殺(あや)めてしまったりしたら、どうだろうか。

江戸時代のお上に当たる行政から独立した司法が、弁護側と検察側の意見を基に、原告と被告双方の心情を酌(く)んだ上で、判決を下す。罪の種類によって、一律に裁かれることなど決してない。それは、歴史に学んだ証(あか)しである。

ただ、その過程を忘れてはならない。歴史に学ぶまでに費やした尊い犠牲を保管することに、明治大学博物館の存在意義はある。学芸員の外山さんは言う。

「来館された方は、刑事部門をご覧になって『現代に生きていて良かった』とよくおっしゃいます。ですが、過去にはこれだけ残酷な刑罰や拷問が行われていて、それは我々と同じ人間の歴史としてつながって現在があるのです。今を生きる我々にとっても、決して無関係ではないという思いで見ていただけたら幸いです」

「明治大学物館」

開館時間:10〜17時

休館日:8月10〜16日および12月26〜1月7日 ※8月の土・日曜に臨時休館あり

料金:常設展は無料、特別展は有料の場合あり

住所:東京都千代田区神田駿河台1-1 アカデミーコモン地階