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紀伊國屋書店・新宿本店(東京都新宿区)で6月12〜26日、「真の日本の繁栄のために―松下幸之助とPHP』展が開催された。「経営の神様」で知られる松下電器産業(現・パナソニック)の創業者・松下幸之助(1894〜1989年)。昭和の産業界を率いてきた幸之助は、経済大国・日本の将来を憂いていた。「人間の真の繁栄と平和、幸福とは何か」。PHP研究所の半世紀を超える活動から、思想家・松下幸之助の一面に迫る。

○「真面目に働くものが損をする」--1946年にPHP研究所を創設

「産業人がいくら上手に企業を経営しても、政治が悪ければそれらの努力はすべて水泡に帰してしまう――。松下幸之助は戦後、しみじみと感じたようです。経営者も政治に関心を持ち、提言をしなければならない。PHPは、良き政治を実現するための母胎を育む活動なのです」

会場を案内してくれたPHP研究所・代表取締役常務の佐藤悌二郎さんはそう話す。PHPは"Peace and Happiness through Prosperity"の頭文字で、「繁栄によって平和と幸福を」の意味だ。

幸之助がPHP研究所を創設したのは1946年。太平洋戦争に敗れた日本の国土は荒廃し、人びとは家を失い、着るものも食糧もない。占領軍の指導で復興への歩みが始まるが、幸之助の目に当時の制度は、「真面目に働くものが損をする」「法を犯さなければ生きていけない」不合理なものにみえた。

幸之助の事業も危機を迎えていた。1918年に創立した松下電器は、戦前・戦中にプラグ、電球ソケット、アイロン……と順調に事業を拡大し、家電メーカーとしての地位を築いていた。

しかし、太平洋戦争中に軍の要請を受けて軍需品を生産したことから、1946年にGHQから「財閥家族」と判断される。制限会社の指定を受け、幸之助をはじめ重役は公職追放に。

世相は日に日に悪化し、平和にはほど遠い。自身は真面目に働こうにも、事業再建の願いが叶わない。幸之助は考えた。これが人間本来の姿なのだろうか――。

会場奥のモニターには、晩年の幸之助が講演会で話す様子が映し出されていた。当時をこう振り返っている。

『人間は万物のうちで、動物のうちで、一番賢いもんやと。その賢いもんが一番つまらんことをやっている。これはどこか間違っているなと。

繁栄と平和、幸福というものは、原則として人間に与えられたものやと。それを自ら壊しているのは人間である。戦争も、もうせんでもええ戦争をしたということは、われわれの間違いであると。それならば社会運動をやらないかん。それで思いついたのがPHPですな』

「人間とは何か」「どうすれば人間は幸せになれるのか」――。佐藤さんは「幸之助は『自分は無学だけれど、多くの人々の知恵や考えを集めれば、PHPに通ずるヒントが見つけられるに違いない』と言っています」と話す。

○幸之助の思想の柱--「繁栄によって平和と幸福を」

幸之助は十分な教育を受けていない。1894年、和歌山県和佐村に生まれ、幼少時に父親が米相場に失敗したため、一家は困窮生活を強いられた。尋常小学校4年生で奉公に出て、満15歳(1910年)に大阪電灯に見習工として入社。真面目な働きぶりと確かな腕を認められ、短時日で昇格を果たすが、1917年に独立、事業に全身全霊を傾け、一代で巨大企業を築きあげてゆく。

思想家・松下幸之助も同じく、寝る間も惜しむ情熱から生まれた。「幸之助は『人の話はしっかり聞くけれど、鵜呑みにしないで、自分で考えて、考えて、考え抜くことが大事だ』と話しています。毎夜3時間しか眠れなくても、考え続けていたようです」(佐藤さん)。

幸之助が考え抜き、たどり着いたのが、「PHP=繁栄によって平和と幸福を」だ。展示には幸之助が残した数々の名言が紹介されていた。

『繁栄は物心両面にわたるものであります。しかも物にも偏せず心にも偏せず、そのいずれをも満たす豊かさが、真の繁栄であります。これが人間の幸福な姿であります』

○奇跡の復興にもかかわらず、国の将来に不安--今の日本はどう映るか?

日本は戦後の荒廃から、奇跡の復興を遂げたと世界から讃えられた。だが、幸之助はこの国の将来が不安だったようだ。1960〜1970年代には、数多くの著書を出版し、社会に警鐘を鳴らしている。『崩れゆく日本をどう救うか』(1974年)、『危機日本への私の訴え』(1975年)、『政治を見直そう』(1977)。

1971年3月号のPHPの機関誌『PHP』に寄せた文章が展示されていた。

『戦後、日本は国民の努力によって経済大国の一つといわれるまでに発展した。そのこと自体は喜ばしいことであるが、今後も経済大国をつき進んでいくのがよいのかとなると、そうもいいきれないように思う。(中略)社会のあちこちに好ましからざる問題が起こっているからである。

では、これからの日本はどのような姿をめざすべきか。私は「精神大国」という姿を実現すべきだと考えている。(中略)ひと言でいえば、国民が心豊かに日々生き生きと働き、その結果として人類の幸福のために力強く貢献できるような姿である』

「1989年、94歳で亡くなるまで、幸之助は日本の将来を心配していました。まだ、やり残したことがあったでしょう」と佐藤さんは話す。会場のモニターでは1982年、88歳を迎えようとする幸之助が語っていた。

『国家の現状というものを考えてみますとき、この身はどうなっても、このままほうっておいたらいかん、なんとかしなければいかんという気分は、年にかかわらず、まだ私にも湧いてくるのです。

非常に平和な楽しい姿にみえますけれども、一抹の不安がどうしても消え去らない。このままでいいのか、こんなことをやっていてもいいのか、日本は果たしてうまくいくのかどうかと考えると、なんとなしに気が沈んでまいります。

(中略) 私は、この際に20年若返って、皆さんのご意見にもとづいて、もういっぺん日本のために働きたい』

それから30年が経った。幸之助の目に、今の日本はどう映っているのだろうか。

(小丸朋恵)