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このコラムは、大袈裟なネタではないけれど、知っているとちょっと自慢できる「あの街の歴史エピソード」を紹介します。第七回は、横浜市中区の旧外国人居留地をピックアップします。

■ビールにホテルにテニス。新しい文化を次々と受け入れてきた土地

幕末、日米和親条約により開国した日本は、次いで1858年に日米修好通商条約を締結。イギリス、フランス、ロシア、オランダとも同様の条約を結び、外国と交流・貿易を始めることを決めました。この日米修好通商条約により1859年に新たに開かれた港の一つが、横浜港です。

条約では、開港場に外国人の居留地を設置することを定めていたため、横浜には、山下町を中心とするエリア(関内)と山手エリアに、外国人居留地が作られます。ここに集まってきた外国の貿易商や文化人たちは、さまざまな新しいものや情報をもたらしました。

横浜から全国に広まったと言われるものには、ガス灯、ホテル、テニス、パン、牛乳、アイスクリーム……と、数え上げればきりがないほどありますが、今では日本人にすっかり親しまれているビールもその一つです。

日本で初めてビールが製造販売されたのは、1869年のこと。山手の外国人居留地でローゼンフェルトという人物が開いた、「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」が元祖と言われています。次いで、1870年頃に、ノルウェー系アメリカ人、コープランドが、「スプリングバレー・ブルワリー」を開業。

「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」の方は数年で廃業してしまうのですが、コープランドの「スプリングバレー・ブルワリー」は、横浜の外国人の間で評判を呼び、1884年に倒産するまで存続。その翌年、同じ場所に、在留外国人が中心となり「ジャパン・ブルワリー」を設立し、ビール醸造は引き継がれます。これが「キリンビール」で知られる「麒麟麦酒株式会社」の前身です。

関内、山手エリアには、今も洋館が多く残り、かつての雰囲気をとどめています。開国間もないころから異国の人々と交流し、新しい文化・産業を積極的に取り入れてきた歴史が、開放的で洗練された “浜っ子気質”を育んだと言われています。

参考/横浜市HP:

横浜市観光情報:

文●高倉 都(エフスタイル)