大ヒット上映中「風立ちぬ」
映画『風立ちぬ』は、観賞しましたか? すでに映画を観た人の感想は、まさに賛否両論。恋愛映画として観ても、「一途な恋に感動した」人もいるかと思えば「主人公の冷たい性格がいや!」という人もいたりと、同じ映画を観たとは思えない意見の分かれかたです。宮崎駿監督も大好きだという、飛行機やメカに注目している人でも「飛行機の描写に感動!」派と、「戦争の描写も避けて卑怯!」派と意見は真っ二つ。友達や知り合いの感想を聞いて「ホントに同じ映画みたの?」とまったく共感できないこともありそうです。

そもそも、この映画『風立ちぬ』自体、堀越二郎の人生と堀辰雄の小説をあわせた不思議な作りの映画で、映画冒頭から夢のシーン。現実と夢の光景を行ったり来たりしながらとくに説明もないという一見難解なもの。しかし、お話としては非常にシンプルなラブストーリー仕立てになっていてこれまた不思議です。鑑賞したものの、「で、結局どう感じればいいの?」とエンディングに流れる名曲『ひこうき雲』を聞きながら頭をひねった人も多いはずです。このあたりが、これまで子どもから大人まで楽しめる国民的アニメとして親しまれている宮崎アニメと違い大人向けと言われる理由かもしれません。

ジブリのご飯美味しそう! からタバコ旨そう! へ……


また、大人向けと言って印象に残るのは、全編を通して幾度となく描かれる喫煙シーンです。ハリウッド映画ではもうほとんど観られない喫煙シーンがこれでもかと登場し、しかも登場人物の喫煙姿が非常に旨そうというこのご時世大変勇気のある描かれ方をしています。「ジブリに出てくるご飯は美味しそう」から、突然の「喫煙シーン、えらく旨そう」ですから。

しかも、恋愛のクライマックスのひとつではヒロインの菜穂子が結核の闘病中に手をつなぎながら同じ部屋でタバコを吸い仕事をするシーンがあります。彼女の体を思いやり外で吸おうとする二郎を止めて、ここで吸ってくださいと菜穂子が言うエクスキューズがあるものの生理的に受け付けない! と言う人も多いようです。

物語の舞台になった第二次世界大戦前夜には、結核タバコの煙は有害であるという認識がどれだけあったかはさておき、今年公開の映画でこのシーンをあえて入れ込むのは、制作側の強い意志があったはずです。実際、このシーンの是非は、観客の感想の大きな論点にもなっています。この「結核」と「タバコ」は、映画の中でどんな意味をもっているのかを考えてみることにします。

菜穂子の病気・結核のもつ意味とは?


ヒロインの菜穂子は、重い結核を患っていますが、それをおして主人公・二郎のもとに行き結婚。二郎の上司の黒川宅の離れでおままごとのような結婚生活と闘病生活を送ります。
このシチュエーションは、堀越二郎の人生ではなく、堀辰雄の小説『風立ちぬ』と『菜穂子』のミックスでどちらも結核に冒されたヒロインが登場します。また、軽井沢のホテルで二郎が出会ったドイツ人カストルプが軽井沢の地をたとえた言葉が「魔の山」。これは、トーマス・マンの小説『魔の山』のことで、こちらも結核を大きな題材に扱った作品です。カストルプと言う名前も『魔の山』の主人公から採られています。

ヒロインの結核というと美人薄命や悲劇の代名詞ですが、ただ菜穂子の死を悲劇的かつロマンチックに扱うためだけにしては、過剰なほど結核を扱った作品やモチーフを扱っています。実は、これらの結核をあつかった作品群は、どれも死と直面する病を背負わされてしまった人を描きながら、人間すべての運命について考えた作品です。サナトリウム文学や結核文学とも言われるそれらは、潜伏期間には症状がなく、当時は特効薬もないまま発病者の半数が死亡し、時には一つの村の半数が死ぬという国民病・亡国病とも呼ばれた理不尽に、人間が直面する運命の理不尽を重ねて書かれたものです。映画『風立ちぬ』のヒロイン菜穂子も、ただ美人の重病人というだけでなく、死の運命をあらかじめ受け入れた人間として描かれているのです。

その証拠に、軽井沢のホテルで、二郎が一見唐突に菜穂子の父親の前でプロポーズをするシーンがありますが、それ祝ってドイツ人カストルプが披露した歌は、映画『会議は踊る』の主題歌「ただ一度だけ」。ロシア皇帝・アレクサンドル1世とウィーンに住む街の娘の一時の逢瀬を描いた作品で歌われるこの曲は、破滅するとあらかじめ分かっている恋を受け入れ飛び込む街の娘の恋を「明日には消え去っているかもしれない。人生にただ一度だけ。花の盛りはただ一度だけなのだから」という切ない内容。その歌のとおり、菜穂子は自分が見つけた皇帝・二郎への元へと命を燃やしながら迷い無く邁進していきます。この一時の愛にすべてを賭けてのめり込む姿は前述の堀辰雄の小説『菜穂子』でも登場します。

ハイカラな紙巻きタバコと、庶民との遊離


そんな菜穂子の命をかけた恋の相手である主人公の二郎の姿で特徴的なのは、計算尺に丸めがね、そして先ほどから言っている喫煙シーンの多さです。

当時のタバコは、キセルやパイプ、葉巻での喫煙が一般的で、紙巻きタバコは明治以降に普及したもの。欧米から入ってきた紙巻きタバコはハイカラのシンボルでした。
また、明治31年からは国の財源確保の一環として専売制が順次施行されていきます。これが戦費調達のための大きな財源にもされていました。

欧米からの技術を学んで日本の航空技術の最先端を走るハイカラさ、そして貧しい国民から金を徴収しながら、甘い夢と死を生む。これは、主人公・二郎が邁進した生き様と重なります。二郎が愛煙する銘柄は紙巻きタバコ「チェリー」で、宮崎駿監督が愛したタバコと同じですが、和訳すると「桜」だというのも趣深いです。

技術者同士のディスカッション、一人での思索に重要な役割を果たしたタバコは、当時の職場はこんな環境だったという以上の意味を持ってきます。彼らの存在そのものが、日本に住む国民にとって膨大な投資を引き替えに、死を運ぶ戦闘機と、列強に並び立つという甘い夢を見せるタバコそのものなのです。

しかも、主人公・二郎は、ただ職業としてタバコという夢と毒の二面性をもっていると言うだけではありません。大学の先輩であり同僚でもある本庄は、自分たちは自分の夢を叶えるために貧しい国民から金をあつめ、戦闘機を作っていると言います。本庄は帰国後、見合いで嫁を取る、自分の仕事をしっかりするために嫁を取るのも矛盾だと自分を皮肉りながら、二郎にタバコを一本くれと頼みます。二郎は、その言葉に分かったような分からないような返答をします。

本庄が二郎にタバコをねだるシーンは他にもあり、最終的に二郎が考案した戦闘機の機構を「使わせてくれ」と頼みます。本庄は、自分の仕事を相対化して皮肉ることができ、世間体のために結婚する分別をもつがゆえに、自分の存在について相対化できない二郎に甘い夢を借りることになり、映画の画面から姿を消していきます。二郎は、幼少時代に夢の世界でカプローニに出会ってから、「美しいもの」のために迷い無く邁進していきます。美に魅入られた存在として、周りに甘い夢と死を振りまきながら。

結果、全編を通じて、関東大震災で逃げ惑う人々や、二郎の勤務する工場へと通勤する工員、戦時中に買い出しですし詰めの列車内などが詳細に描き込まれながらも、二郎はその風景とは一種切り離された超然とした立場をとり続けることになります。菜穂子と二郎は、どちらもあらかじめ運命を受け入れた人間として、そして社会的に隔絶した存在として描かれているのです。この二人が結婚生活を営んだのが、上司黒川の離れの一室であることも象徴的です。

魔法のような運命を受け入れた人々の物語


映画『風立ちぬ』には二郎の夢の世界に現れるカプローニと、軽井沢のホテルで出会うカストルプという印象的な外国人二人が登場します。カプローニは実在の人物ですが夢に登場し二郎との会話は実際に交わされたものではなく、カストルプは小説内の架空の人物で映画内では実存をもって登場したように見えながら去り際の描写は夢との境があいまいです。

この夢と現実の狭間に現れた二人の異人は、どちらも印象的なこちらを見透かしてくるような瞳で、二郎や菜穂子、そして観客を見つめます。ジブリ映画で主人公の運命を左右する魔法使いの位置にいるキャラクターたちの瞳とよく似たこの眼差しをうけ、二郎は航空機に、菜穂子は実ることのない恋にと、死と甘い夢の呪いにも似た運命に人生を賭けます。

こうして、運命をあらかじめ受け入れた人間として二郎と菜穂子を見ることで、問題の「菜穂子が結核の闘病中に手をつなぎながら同じ部屋でタバコを吸い仕事をする」シーンを見返すと、「結核患者の前でタバコを吸う非道い人間・二郎」という否定的な見方や、「仕事に邁進しながらも菜穂子のそばにいる二郎と、理解のある妻菜穂子」という好意的な見方のほかに、美しくもエグい運命観が見えてきます。二郎と菜穂子の迷いが無い生き方をどう感じるか、映画『風立ちぬ』を未見の人は体感し、既に観た人はもう一度見てみてはどうでしょうか?
(久保内信行)

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