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漫画家の藤子不二雄(A)氏が27日、東京・アニメイト池袋本店で漫画『愛…しりそめし頃に…』完結巻発売記念イベントに登場した。

『愛…しりそめし頃に…』は、漫画家コンビ・藤子不二雄が漫画家になるまでの若き日を描いた名作『まんが道』の続編で、『まんが道』から数えると43年目にして完結を迎えたことになる。藤子不二雄(A)こと安孫子素雄氏は、今年3月に上行結腸がん(大腸がん)の手術をしているが、壮健な様子でファンの前に登場。同氏らしい軽妙なジョークを交えたトークで200名のファンを沸かせた。元担当編集・小学館の西堀氏が聞き手で行われたトークショーでは、盟友たちとの友情や今年3月に受けた大腸がんの摘出手術などさまざまな秘話が飛び出したので、トーク内容をもとに書き起こしで紹介する。

○大病を乗り越えICUで見たトキワ荘や手塚治虫の夢

「43年前に『少年チャンピオン』で、漫画の描き方の連載がはじまったんです。せっかく描くのに漫画の描き方だけではもったいないと思って、4ページのうち2ページで僕らが漫画家になるまでのことを描いていたら、そちらの人気が出てしまった。それから色々な雑誌に掲載してきました。『まんが道』ではあまり色恋の話はなかったから、青春時代を描くにあたって『愛…しりそめし頃に』にタイトルを変えたんだけど、あんまり色気のある話がなかったからね、『まんが道』のままでよかったね(笑)。

この作品は舞台の大半がトキワ荘(手塚治虫氏や寺田ヒロオ氏、藤子・F・不二雄氏、藤子不二雄(A)氏、石ノ森章太郎氏、赤塚不二夫氏などが居住していた木造アパート)だけど、基本的にこもって絵を描くばかりだから、動きとかがないんだね。他の作品では構図とかも考えますが、この作品ではあまりそういうことは意識せずに描いてきました。僕も年なので、未完で終わってしまっては大変なので、区切りをつけることにしました。

今日は元担当の西堀君とトークをやってますが、漫画家にとっては担当編集者との関係が本当に大事なんです。たくさんの読者が作品を楽しんでいてくれても、僕から直接は見えない。最初の読者が担当編集なんですよ。だから、読んだら嘘でもいいから面白かったと言って気持ちを盛り上げてくれと言っています(笑)。

今年の春に手術をしたんですが、僕は氷見の厳しい寺で育って、肉や魚を全く食べない生活をしていて、これまで病気をしたことは一度もなかった。一度痔になったり、酒を飲んで怪我をしたりはあるんだけどね(笑)。それがある日、腕のところにイボができてどんどん大きくなる。それは手術でとったんだけど、もし悪性なら転移があるかもしれないからと検査を受けた。その検査がPETというもので、ガンの検査だと知ってガーンとなった!(笑)

検査の結果大腸に立派ながんがあって、ゴルフもできない酒も飲めないのなら、もう死んでしまおうかと思った。仕事はどうでもいいんだけどね(笑)。

それでも手術の時先生に、僕は漫画家だから手術の写真を撮ってくれと言ったら、そんな患者は初めてだと言われたよ。その後出血してICUに入ったんだけど、2週間で退院して、すごい回復力だと褒められた。ICUに入っている時は色々と4日間悪夢にうなされたね。大勢のドイツ人にソーセージを無理矢理食べさせられて、それが第1話。

悪夢の第2話は、なぜか僕が黒澤明監督の『夢』に登場する笠智衆さんになり、田舎をさまよっている。そこには朽ち果てた家があって、それがトキワ荘だった。2階の窓が開いて、石ノ森氏(章太郎)や赤塚氏(不二夫)、テラさん(寺田ヒロオ氏)とか、手塚(治虫)先生が手を振ってきて、僕を呼んでいる。一緒に歩き始めて小川の橋に差しかかった時、揺り動かされてはっと目が覚めたんだ。ぎりぎりセーフ。あっちに行っていたら皆さんに会えなかっだろうね。

○盟友・赤塚不二夫氏を救ったテラさんの友情

トキワ荘にはご存知の通り漫画家ばかりが住んでいて、誰かがいなくなったら次の人が入ってくる感じだった。トキワ荘の仲間とは「新漫画党」というグループを作ったけど、一度も喧嘩をしたことはなかった。集まりは大体テラさん(寺田ヒロオ氏、新漫画党の総裁)の部屋で、僕とテラさん以外は一滴も酒が飲めない。赤塚氏も当時は飲めなくて美少年で……今からは信じられないですが(笑)。新漫画党の会合では"チューダー(焼酎のサイダー割)"を飲みながら、漫画の話はせずに映画の話ばかりしてたね。

一度つのだじろうが、新漫画党は漫画の話をせず、映画の話ばかりにかまけてけしからん! という毛筆の手紙がきたことがあったんですよ。藤本氏(藤子・F・不二雄)はそういうのをとりなすのが上手でね、漫画家は漫画の話は自分で考えるものだ、映画の話やさまざまなことから刺激を受けるのが大事なんだと返事をしたら、つのだが大変ショックを受けて、それから彼も遊びまわるようになったんだ。

当時テラさんにはいつも家賃を貸してもらっていてね、具合が悪いから言い出せずにいると、月末になるとテラさんの側から家賃は大丈夫かと言ってきてくれる。面子が立たないから大丈夫だと言って、結局翌日借りに行ったりね。僕らはみんな寺田バンクと言っていたんです(笑)。

最初赤塚は売れなくてね、いつも部屋の前で味噌汁を作ったりしていたから、僕らはまるで石森氏(石ノ森章太郎)の女房みたいだなんて言っていてね。彼は本当はギャグ漫画をやりたいんだけど、当時はギャグ漫画というものがあまりないから、悲しい少女漫画とかを描いてた。それである日、キャバレーがボーイを募集してるから漫画家をやめると言いだした。最後に赤塚がテラさんに相談に行った時、テラさんが当時は大金の5万円を取りだしてね。これがなくなるまでは漫画家をやりなさいと言ったんだ。

それで赤塚氏はしばらく続けることにして、これが運命の変わり目だった。当時は手塚先生が何百ページも一人で連載をやっていたような時代で、誰かが原稿を落とすと代原が必要になる。編集者がトキワ荘にやって来て、誰か16ページやらないか、となる。代原は編集者を通さずに好きにやれるから、冒険ができるんですよ。そこで彼が少女雑誌なのにギャグをやったら、それが大人気になって、あっという間に人気漫画家になったんです。彼はテラさんに引き止められなかったら、今頃はキャバレー王だって言ってますが(笑)。

トキワ荘に手塚先生がいた頃は、編集者がちょっと外に出ている間に、裏口から別の編集者が入ってきて手塚先生をさらっていったりした。宿で缶詰になっていると、元いた編集者が嗅ぎつけてやってきてね。「手塚先生いるんでしょう!」と石を投げこんでくるのを、身を低くして隠れていたのを覚えてます。

僕らは手塚先生のファンが漫画家になった最初の世代でね。手塚先生にトキワ荘に誘われた時、僕らには敷金の三万円がとても払えなかったんですよ。そうしたら手塚先生が「敷金を気にしているなら、それは置いていくよ」と言ってくださった。当時はよく銀座の映画館に誘ってくれて、その時は必ず食事をご馳走してくださった。最初は僕らが手塚先生に手紙を書いたんだけど、当時は全国の漫画少年が手塚先生に手紙を出していたから、なんとか目立とうと頭をひねって、描いたこともない油絵を描いたんだ。藤本氏にベレー帽をかぶせて、先生の自画像を頼りに(手塚の)肖像画を描いて送ってね。先生がすぐに返事をくれて、それから文通から交流が始まったんだ。

手塚先生の仕事場にお邪魔した時、先生は四、五人の編集者に囲まれていてね。その時に待っている間に400ページもの生原稿を見せてもらったんだけど、単行本のどこでも見た覚えがない。1,000ページ描いたうちの400ページをカットしてそれがその原稿だと聞いて、僕らは自分たちが描いた10ページやそこらの原稿なんてとても出せなかった。手塚先生は本当によくしてくださって、そういう関係はずっと続きましたね。手塚先生がいなかったら、僕らは漫画家になってなかった。

今はまだ、『愛…しりそめし頃に…』が終わってほっとしたところで、まだ新しい作品について考えられる状況ではない。でも今大変なシニア世代に元気をあげられる作品にしたいと思っていて、実は作品のタイトルだけは決めてあるんですよ。

と言って、藤子不二雄(A)氏は次作の構想を明かし、大盛況のトークショーは幕となった。『愛…しりそめし頃に…』の最終巻・第12巻は現在発売中。

(トランジスタ)