今週はこれを読め! ミステリー編

 内容のあまりの過酷さに、翻訳家が日本人の読者に紹介してもいいか躊躇った本。
 それが、アーナルデュル・インドリダソン『緑衣の女』だ。

 インドリダソンはアイスランドの作家で、本書によってガラスの鍵賞とCWA(英国推理作家協会)の最優秀長篇賞にあたるゴールドダガーを獲得した。ガラスの鍵賞はスカンジナヴィア推理作家協会が北欧5ヶ国の優れたミステリー作品に贈るもので、インドリダソンは本書と、その前作である『湿地』(東京創元社)の2作で連続受賞している。これは賞が創設されて以来初の快挙だ。人口わずか30万人のアイスランドには、とんでもない才能が潜んでいた。

 ある女性がいる。係累のいない、天涯孤独の身の上だった。最初の夫は船乗りだったが、事故に遭って死亡した。後には幼い娘だけが残されたのである。
 その彼女を見初めた男性が現れ、二人は世帯を持つことになった。なんの問題もないかに思われた結婚だったが、やがて夫は豹変したのである。彼女を売春婦呼ばわりし、他の男に色目を使ったと難癖をつけては懲罰のために殴打をするようになった。妻がそういう風に淫乱になったのは、母親がふしだらな乱交をして生まれた父なし子だからだ、といわれのない中傷をし、そのことを子供の前でも平気で口にする。殴られ、足蹴にされるだけではなく、そうした言葉でも痛めつけられる。自宅という牢獄の中に閉じこめられ、彼女はだんだん萎んでいく。夫の暴力によって身も心も削られていってしまうのだ。

 住宅建設地から人骨が発見される場面から物語は始まる。人骨は古いもので、死亡してから60年は間違いなく経過していた。レイキャビク警察犯罪捜査官のエーレンデュルは2人の部下とともに、その謎を追い始める。骨が発見された場所の近くには、昔人家が建てられていた形跡があった。骨はその住人の関係者なのではないか。エーレンデュルのチームは過去を知る者を捜し始めるのである。

 前作『湿地』を読んだ人は、小説の冒頭で衝撃を受けるはずだ。エーレンデュルにとって非常に近しい人が倒れ、意識不明の重態となってしまうからである。『湿地』において断片的にしか語られなかったエーレンデュルの人となりが、本書では捜査する事件とほぼ同等の比重で語られていく。平凡な中年男の内には、傷つきやすい魂が隠されていた。なぜ彼が暴力を憎み、事件の被害者に対して過度とも思える関心を抱くのか。作者はエーレンデュルという人物を解剖する代わりに、エピソードを語ることで読者にそれとなく察しさせようとする。その匙加減が上手く、中年の警察官が非常に身近な人間に感じられるようになる。私はいつの間にか、彼の目を通じて世界を見るようになっていた。

 骨の正体は誰か、ということが本書における最大の関心事だが、インドリダソンはそれが判明する瞬間を可能な限り遅くさせようとする。単に遅延させるだけではなく、複数の可能性を提示して、どの選択肢が正しいのか、読者に考えさせようともする。中心線に置かれた謎が物語の牽引役として強力なのである。冒頭で紹介したDVの描写が何を意味していたのかも、その謎が解けたときに判明する。そこで見えてくる人生のありさまが、読者の記憶にいつまでも消えない印象を残すことだろう。

 翻訳者の柳沢由実子は、作家の意図を質すためアイスランドに赴いてインドリダソンと会見を持ったという。あえて暴力描写を前面に出した作品を書いたのはなぜなのか。作家の答えに納得し、柳沢は翻訳の決意を固めた。これが読まれるべき小説であるか否かの判断は、本を手にした人ひとりひとりがすべきことである。

(杉江松恋)



『緑衣の女』
 著者:アーナルデュル・インドリダソン
 出版社:東京創元社
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