講談社文芸文庫編『追悼の文学史』(講談社刊)
佐藤春夫・高見順・広津和郎・三島由紀夫・志賀直哉・川端康成と、1960年代から70年代にかけて亡くなった作家6人を追悼する文章を収録。帯の「人生の終着点から見た、知られざる相貌」というフレーズからは、山田風太郎の『人間臨終図巻』とも通じるものを感じる。

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ほかのサイトの宣伝で恐縮ながら、最近デザインが大幅にリニューアルされた「cakes」にて、「一故人」という、文字通りそのときどきで亡くなった著名人をとりあげる連載をしている。そんな私だが、講談社文芸文庫から『追悼の文学史』という本が出ていたことを、不覚にもしばらく知らなかった。リアル書店で見つけて、あわてて購入した。

『追悼の文学史』は、佐藤春夫・高見順・広津和郎・三島由紀夫・志賀直哉・川端康成という6人の作家がそれぞれ亡くなった際、文芸誌「群像」に掲載された文学者たちの追悼文を収録したものだ。いずれの文章も故人とつきあいのあった人たちが書いているだけに、思いがけない横顔がうかがえたりして面白い。名前ぐらいしか知らない作家でも、どんな人物で、どのような業績を残したのか、手引きとしても読むことができる。たとえば、「座談の名手」と呼ばれた広津和郎について、作家の丹羽文雄が書いた「広津さんのこと」という一文を読めば、がぜん興味が湧くはずだ。

それによると、丹羽が、東京・本郷にあった広津の下宿を訪ねた際、広津はとめどなくしゃべり続けたという。途中、銀座に出ようというので、電車か車で行くものと思いきや、広津はしゃべったまま歩き始める。本郷から銀座まではかなりの距離がある。その長い道のりを歩きながら広津は一方的に話し続けたというのだから、ただごとではない。

それでも丹羽は疲れることはなかったという。むしろ初対面の自分にこれほど情熱的におしゃべりのできる広津の人柄に感動したと、当時を振り返っている。人柄だけでなく、文学から料理にまで話題がおよんだという広津の語りに魅せられたということだろう。

そんな広津に対して、あまり話すことが好きでなかったらしいのが川端康成だ。講演嫌いで知られた川端は、日本近代文学館の設立趣意を伝える講演会で何度か演壇に立ったものの、そのうち2回の講演では、「あまり言うほどのことはありませんから」とだけ言って、あとは何も語らなかったという。黙ったままの川端に対し、客席から笑い声が起こったとか(小田切進「あたたかい人―川端さんとのこと―」)。彼がノーベル文学賞を受賞する5年ほど前の話である。

川端康成の追悼文を読んでいると、作家の浮世離れした金銭感覚にも驚かされる。ノーベル賞受賞が決まった直後、川端から「忙しくてしかたない」と愚痴られた文芸評論家の中村真一郎は、「大変な賞金が入るんじゃありませんか」と冗談を言ったところ、《「あれっぽっちの金では、ルノワールの絵一枚買えませんよ」と切り返すように答えられた》という(「川端さんの想い出」)。ノーベル賞の賞金が「あれっぽっちの金」とは……。

中村はまた、あるとき「この頃は銀座に遊びに行きますか」と川端に訊かれたので、「いや、勘定が払いきれないので」と答えると、「勘定なんて払うもんじゃないですよ」と言われた――なんてエピソードも明かしている。そういえば、川端行きつけの骨董屋には、彼の死後も多額のツケが残っていたというが、それも「勘定なんて払うもんじゃない」と思っていたからだろうか。中村は、《川端さんの金の話は、すべて夢の話に似ていた》と文章を締めくくっている。

川端とは師弟関係にあった三島由紀夫の追悼文では、若い頃の思い出をつづった瀬戸内晴美(寂聴)の追悼文「奇妙な友情」がいい。そこでは、瀬戸内がデビュー前、まだ新人作家だった三島と文通していたこと、彼女が雑誌に少女小説を書いて金を稼ごうと思い立ったときも、三島に手紙で相談して、「三谷晴美」というペンネームをつけてもらったことなどが明かされている。

瀬戸内はこの名前で小説をいくつか書き、雑誌社に送ったところ、いずれも採用され、一編につき当時のサラリーマンの給料の何倍かの原稿料を得たという。彼女にとって、これが自分の書いた文章が初めて活字化された経験であった。文壇に本格デビューするのはもう少し先のこととはいえ、瀬戸内の作家としての出発点に三島がかかわっていたというのが、ちょっと意外な気もする。

さて、この本で私がいちばん面白く読んだのは、志賀直哉について弟子の阿川弘之がつづった「葬送の記」という一文だ。

生前、自分の葬式について阿川から訊かれた志賀は、《今、僕の骨壺をあらためて浜田君[陶芸家の浜田庄司――引用者注]に焼いてもらっているから、そいつを此のストーブか何かの上に置いといて、こっちの玄関の方から一人々々入って、お辞儀をしたけりゃ勝手にして、庭から裏へ抜けて帰ってもらうんだね。無論無宗教さ》と答えたという。

しかしいよいよ志賀が危篤におちいったとき、さすがに葬式を公に行なわないとなると、《いつまでもキリがつかないのではないか》と阿川は考えた。志賀の長男も《式はやろう、やらないとダラダラで第一おふくろが参ってしまう》と、母親(志賀の妻)とも相談して、できるだけ簡素に執り行うことが決まる。しかし、この「できるだけ簡素に」というのが難物だった。

志賀はかつて自邸を建てる際、建築家の谷口吉郎に、「まったく洒落気のない、丈夫で、便利な家を作るとして、いくらぐらいかかるか」と訊ねたことがあったという。これに対し谷口の答えは、「それがいちばん贅沢な注文なんですよ。洒落たことをしてもよければいくらでもごまかせますが、洒落ちゃあいけないと言われて、いい家を建てるのは一番むずかしいですよ」というものだった。阿川はその話を思い出しながら、葬式も同じことになりそうだと予感する。

案の定、志賀が亡くなると、阿川たち関係者は対応に追われる。阿川は、政府筋から芸術院の事務局を通じて、叙位叙勲や、天皇からの祭粢料(さいしりょう)を賜るかどうか打診を受けるも、志賀の家族などと相談した上、いずれも辞退すると伝えた。前出の谷口吉郎も、葬儀の準備を任された一人だが、そのとき彼が葬儀社に出した注文には、不謹慎にもつい吹き出してしまう。

《「あなたには色々お願いしなくちゃならないんだが、あなたね、いいですか、葬儀屋としての考えを、一ぺん頭から全部捨ててしまうの。そう、いいですね」
 火葬場へ遺骸を運ぶ車は、蓮の花の飾りなんかついたのは困る。白木の霊柩車、それもいけない。線香立ては要らない、あれを持って来てはいけない、これをしてはいけない。
 葬儀屋は困ったような、不思議そうな顔をしていた》

はたして志賀の葬儀は、遺体が荼毘に付された翌日、自宅にて執り行われた。作家の里見とん(「とん」は弓へんに享)や武者小路実篤らの弔辞、さらに志賀と親交のあった東大寺の僧侶による読経に続き、音大生だった孫娘がピアノを弾くなか、参列者が献花を行なった。式には大勢の参列者が詰めかけ、なかには若い女子学生の姿もかなりの数見受けられたという。

阿川はくだんの追悼文のなかで、《先生には、千何百人もの人の集るような葬式をしたこと自体が申訳なかったかも知れない》とも書いている。それでも大作家ともなると、社会的立場もあり、ごく一部の人間だけで葬送するわけにもなかなかいかないのだろう。そこを、故人の意向も可能なかぎり尊重しつつ、折り合いをつけるため、阿川たちが腐心するさまが、この文章からはありありと伝わってくる。

『追悼の文学史』はこのように、作家や文学史の知られざる一面がうかがえる好企画だ。ただ一つ残念なのは、編集意図などを記した解説がついていないこと。本書でとりあげられたのは、1964年から1972年にかけて亡くなった作家たちだが、その年代を考えると、伊藤整(1969年没)や内田百けん(1971年没「けん」は門構えに月)、あるいは谷崎潤一郎(1965年没)が選ばれてもおかしくないのに入っていない。なぜこのような人選になったのか気になるところである。

とはいえ、カバーに載った内容紹介には「第一弾となる本書で」とあるので、続編も予定されているのだろう。上記の3人を含め、今後、より多くの作家たちの追悼文が読めることを楽しみにしたい。いや、追悼文を楽しみにしているというのも、どうにも不謹慎ではあるけれど。(近藤正高)