現在の製パン工場【撮影/荒木尊史】

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1974年、鹿児島県生まれ。邱永漢氏に師事し、2005年より、チャイニーズドリームを夢見て北京で製パン業を営む荒木氏。今回は、自己紹介も兼ねて、邱先生の指示のもと製パン業を起こしてから、現在の成功に至るまでの8年を紹介します。

成都のボーリング場経営から一転、北京のパン屋へ

 私は大学卒業後、商社に就職して営業を担当していた。27歳を過ぎた頃から、このままサラリーマン人生を歩むか、他の道を歩むか悩むようになった。そんな折、図書館でふと邱永漢氏(邱先生)の著書に目が止まり、それを読んだことが人生を大きく変えることになった。

 それから3年後の2005年、私は北京で仕事をしていた。邱先生と東山堂ベーカリーの原田氏が創業したパン屋を任されることになったのだ。ちょっとしたきっかけと、出会い、偶然が入り混じり、その当時の私の人生は目まぐるしく動いていた。

 2012年の年商は日本円で5億円を超えた。けっして順風満帆だったわけではなく、現在も大小様々な問題を抱えているが、なんとかつぶれずに、北京の製パン業としてそこそこ注目される存在になることができた。

 実は私は創業メンバーではない。創業からまだ1年経たない時期に、台湾人の初代総経理が問題を起こし、急遽2代目の総経理として邱先生にパン屋を担当するように命じられたのだ。

 その当時、私は成都でボウリング場を2店舗経営しており、新規にオープンした2号店がどうにか軌道にのったので、チベットか九賽溝にでも旅行に行こうかと考えていた。そんな私の甘い思惑もかなわず、事情もよくわからないまま、邱先生に呼ばれて北京へ赴いた。

 来てみて驚いた。パン工房や関連レストランのオープンなどで手持ち資金がないというのはともかく、会社存続に必須の営業許可書、衛生許可書などの書類がひとつもなかったのだ。

 正確には、なかったのではなく、仮許可書から正式許可書への移行作業が行なわれておらず、3カ月間の移行期限をとっくに過ぎていた。理由は書くと長くなるので省くが、作業を怠ったのではなく、おそらくできなかったのではないかと思う。

 初代総経理が何を考えていたのか、私にはわからないが、誰にも相談できず、不安で眠れない夜を過ごしていたに違いない。事実、私との引き継ぎは何のトラブルもなく、たった1日で終わった。終始笑顔であったことが印象的だった。

 私の初仕事は、許可書失効を届けるために政府機関に出頭することだった。再認可されるか、されないかわからなかったが、この問題が白黒付かなければ何も始まらない。

 結果、いろいろな方々の協力の下、100万円を超える罰金にはなってしまったが、正式に会社として認められることになった。

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