ライフネット生命保険 社長 出口治明(でぐち・はるあき)1948年、三重県生まれ。72年京都大学法学部卒業、日本生命入社。92年ロンドン事務所長、95年国際業務部長、98年公務部長。2006年生命保険準備会社ネットライフ企画株式会社を設立、同社社長に就任。08年生命保険業免許を取得、現職に。

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■異文化理解を養うロンドンとの縁

1992年の初夏、ロンドンから車で2時間ほどのオックスフォード大学を訪ねた。日本生命のロンドン事務所長と現地法人の社長を兼ねて着任し、2カ月がたっていた。大学に多数あるカレッジの1つ、キーブル・カレッジのキャメロン・エーヴリル学長に、昼食へ招かれた。

会社が大学に寄付をしたことで、毎年、カレッジが社員の留学を受け入れてくれていた。「お礼とご挨拶に」という部下に頷き、案内してもらう。赴任直前に東京の英会話学校で急ごしらえした英語で「初めまして」と言った後、学長に「どういう研究をされているのですか?」と聞いてみる。「後期ローマ帝国です」との答えが返ってきた。

英語は通じた。「私も、ベリサリウスが大好きです」と東ローマ帝国の武将の名を挙げたら、「日本人に何人も会ってきたが、ベリサリウスの話を聞いたのは、初めてです。何で興味があるのですか?」と驚き、会話が一気に弾む。自称「歴史オタク」。44歳のときの出会いだ。

すっかりうち解け、以来、ファーストネームとニックネームで呼び合う仲となる。彼女は、日本へ帰任する際に事務所で開いた簡素な感謝パーティーにも来てくれたし、数年前には学生たちを連れて来日し、旧交を温めた。異なる文化を互いに受け入れ、敬意を払い合い、絆を大事にすることを学んだ縁だ。

ロンドンとの縁は、どの都市よりも深い。29歳のとき、「経営計画の立て方」と題した係長への昇格論文で「売り上げより利益が大事だ」と書いたら、優秀賞をもらい、3カ月間、英米などへいかせてくれた。その後、海外証券会社への投資の調査でも、ロンドンへいく。そして、前号で触れた金融制度の改革へ向けて、生保業界の欧米視察団を3度結成し、同行した。

その制度改革の論議にめどが立った92年初め、上司に異動の希望先を聞かれた。上司は、普通の昇進コースである地方都市の支社長への転進を考えてくれていたが、「ロンドンへいきたい」と答える。視察団で欧米を回ってみて、米国の影響力は大きいが、すべての金融イノベーションはロンドンで起きている、と感じた。その最前線で、仕事をしてみたい。上司は「会社で偉くなるためには、あまり薦めないな」と言いながらも、実現してくれた。

ロンドン事務所は20人余りの陣容で、金融の動向や経済情勢に関する情報を、東京の国際部門へ送っていた。現地法人のほうは、外国人を5、6人雇い、円建ての融資や債券取引を手がけていた。部下の日本人は約20人で、両社を兼務する例が多かった。

ある日、ローレンス・ミラーと名乗る男がやってきた。南アに弁護士事務所を持つ、という。日本がバブルの絶頂期だったころ、生保にあふれる「ジャパンマネー」を南アにも投融資しないかと誘いにきたが、追い返されたらしい。

面白い人物だった。ロンドンのユダヤ人社会に通じているし、母国では政府や金融界に太い人脈を持つ。何度目かの食事の際に「せっかく仲良くなったので、一緒に面白い仕事をしませんか」と言った。同意すると、「出口さんの仕事は何ですか」と聞かれた。「円建ての融資が、最大の仕事です」と答えると、「考えてみます」と言って帰った。

2カ月ほどして、南ア政府の財政資金への融資案を持ってきた。「ただ、日本政府が南アを敵視せず、興味を持っているということを示してほしい」と付け加えた。なるほどと思い、「日本の金融機関による調査団をつくって、南アへいこう。そこに、大蔵省か日本銀行の人にも入ってもらい、日本が南アに関心を持っていることを示そう」と決めた。

ロンドン駐在の2年目。日銀のロンドンの責任者が団長を引き受けてくれ、何社かが呼びかけに応じて、6人でヨハネスブルグへ飛ぶ。5月か6月、南アは初秋の気候だった。蔵相や中央銀行総裁に会い、意見を交わす。「日本は遠い国だけど、南アにひじょうに関心を持っている。早く、国際社会へ復帰して下さい」と話すと、好感を持ってくれた。経済団体も、歓迎の宴を開いてくれた。約1週間いて、ミラーさんの事務所があるケープタウンにもいく。

■「還暦ベンチャー」後進に経験伝える

契約書の見本をミラーさんに渡して、融資案を固めてもらう。回答は魅力的だった。金額は100億円、南ア政府が借りて、中央銀行が保証する。日生の単独融資で、期間は3年、金利は約8%の長期プライムレート。当時、南アは人種差別政策を終えて国際社会へ復帰する前で、まだ国際金融界の認知が乏しいため、貸手にかなり有利な条件だ。

だが、東京から「とんでもない、そんなリスクはとれない」と言ってきた。折衝すると、担当部長のところで書類が止まっていた。いろいろと、本社の了解を得ずにやってきたのが、気に入らなかったようで、破談となる。でも、ミラーさんとの縁は続く。帰国後もクリスマスカードの交換を続けたし、彼が65歳で引退した際には、息子の依頼で「友人たちの寄せ書き」に参加した。

「縁尋機妙、多逢勝因」――地蔵本願経にある言葉で、縁は縁を呼ぶ不思議なもので、その縁が生む多くの出会いがいい結果へ導いてくれる、との意味だ。ほとんどの経営者は、そうした縁を多数持つ。だから、連載で2年半前にもこの言葉を引用した。無論、縁は意図して生まれるものではなく、結果を求めるものでもない。南アへの融資こそ実現しなかったが、出口流の出会いの連続は、まさに「縁尋機妙」と言える。

この1月まで米政府で財務長官を務めたティモシー・ガイトナーさんとの縁は、彼が駐日米国大使館にいたときに始まる。本社の課長だった40代初めで、日本の生保が「ザ・セイホ」と呼ばれ、外国の国債を大量に買っていたバブル時代だ。

親しかった大蔵省(現・財務省)の課長補佐が「米国大使館の若い男に『何で日本の生保は為替リスクがあるのに、こんなに米国国債を買うのか。理解できないし、いつまで買い続けるのか、役員に聞きたい』と頼まれた」と言う。すぐに数人の役員に当ったが、「自分の会社のことは話せても、業界全体のことなど話せない」などと、尻込みをした。やむを得ず、自分が会いにいく。

ガイトナーさんは、大学院でアジアの研究をした際に日本語を学んでいて、やり取りに苦労はない。13歳も年下だが、波長が合って、何度も会うようになる。彼が帰国してからも、季節の挨拶の交換を重ねた。2009年1月、オバマ政権の財務長官になったとき、お祝いの手紙を出したら、「ありがとう、がんばるよ」との返事が届く。

還暦を前に、また、「縁尋機妙」があった。2006年春、友人に頼まれ、あすかアセットマネジメントの谷家衛さんに会うと、新たな生保の設立を任せされる。谷家さんは、準備を進める相棒に、会社を辞めて米ハーバード大の大学院へ留学していた岩瀬大輔さんを呼んでくれた。谷家さんは核となる出資者だし、岩瀬さんはナンバーツーの副社長。こうした縁が、「還暦ベンチャー」と呼ばれた挑戦を、支えてくれた。

いま、週末に各地の小集会へ足を運んでいる。ベンチャー企業を興したい人、経営陣に入った人、就活中の若者たち。「還暦ベンチャー」の話を聞きたいとお呼びがかかれば、どこへでも出向く。年間に約200回、公民館などで、ネットでの呼びかけなどで集めたらしい20人から30人に、体験を交えて話す。

講演料は、受け取らない。その代わり、話の最後に生命保険について付け加え、自社を紹介したはがき大のカードを配る。1日に2、3回続くこともあるが、苦ではない。まだできて5年目の会社のPRになるからだけではなく、新たな縁に出会うことが楽しみだからだ。

(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)