ポラリス不動産の郭雲雲総経理(社長)。まだ若いが、業界経験は長い【撮影/大橋史彦】

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2006年に中国移住。蘇州、北京、広州、そして08年からは上海に在住。情報誌の編集長を務める大橋さんが目にした、尖閣問題以降の中国人親日企業家たちの苦悩とは?

料理を間違えても食べてくれる日本人の優しさに触れて……

 上海には古くから、日本人・日系企業向けに不動産賃貸を仲介する業者が数多く存在する。日本の宅地建物取引主任者(宅建)のような資格を持たなくても会社を興せるというハードルの低さのためか、日本人経営が多いが、中国人経営の会社も少なくない。郭雲雲さんもそんな中国人経営者のひとりだ。

 安徽省の田舎町で育った郭さんにとって、日本という国は文字どおり遠い存在だった。上海に出てくるまで、日本人はテレビでしか見たことがなかった。

 十代の半ばを過ぎたころ、仕事を求めて上海にやって来た。最初に就いた仕事は、日本料理屋の店員だった。飲食業は、サービス業のなかでもとくに上海人から人気のない業種で、管理職以外の従業員はほとんどが地方からの出稼ぎ労働者だ。

 客は日本人が多かった。初めて接する日本人、耳慣れない日本語に、最初は注文を聞き間違えることも多かった。オーダーミスをした場合、この店の規則では間違えた店員に罰金を科せられるのだが、日本人客は間違った料理でも「大丈夫」「気にしないで」などと言って食べてくれた。「日本人の優しさを知った」(郭さん)ことで、日本人への印象が変わった。

 若かったせいか、日本人客からもよく話しかけられたが、言葉を話せないことがもどかしかった。店の近くにあった大学に通う日本人留学生と仲良くなり、日本語を教えてもらったこともあったが、口語しか上達しないので、働きながら語学学校にも通った。3年近くが経つと仕事にも慣れ、日本語もある程度上達した。

日系不動産会社にスカウトされ、営業部長に

 転機は唐突に訪れた。

 馴染みの日本人客から「うちで働かないか」と誘いを受けたのだ。その客の息子は、不動産仲介会社を経営していた。

 興味がありつつも、日本料理屋のオーナーに恩義を感じていたので、迷ったという。ところが意を決してオーナーに相談すると、「いいことだ」と応援してくれ、転職することになった。

 最初は何もできないので、仕事は雑務が中心だったが、徐々にアフターサービスの担当者に同行するようになった。“アフターサービス”と英語でいうと聞こえはいいが、要は入居後の不具合を解決するクレーム処理である。

 初めての会社勤めでがむしゃらだったのだろう。日本人客からの評判は上々で、担当者を飛び越え、直接連絡がくるようになる。当時は、まだそれほど日本語がうまくはなかったが「話そうという気が伝わる」と評価してくれる人が多かったという。

 そうして多くの客と仲良くなっていくと、今度は営業を任されるようになった。ありきたりの表現だが、上海人と比べてハングリー精神があったのだろう、やがて営業成績トップを達成。最終的には営業部長まで任された。

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