1990年代半ば以降、低価格の衣料品が市場を席捲する過程で、1990年(平成2年)には50%を超えていた衣類の国内生産率は3%にまで低下した。まるで「絶滅危惧種」の様相を呈している。

 ビジネスマンのユニフォームであるワイシャツを製造していたメーカーも、その多くが消滅した。2009年に倒産し上場廃止となったトミヤアパレル(現在も会社は存続)もそのひとつ。

 閉鎖の危機に立たされた同社の人吉工場(熊本県人吉市)ではトミヤアパレルの取締役だった吉國武が、

「会社は倒産しても、技術力のある工場まで巻き添えにすることはできない」

 と、自社ブランド「HITOYOSHI」を立ち上げ、自ら社長に就任した。

 誰もが知っている欧米の有名ブランドのシャツも手がけていた人吉工場の技術は折り紙付きだった。

 その「HITOYOSHI」と、運命を共にしたいと志願した男がいる。山田敏夫。当時まだ20代後半だった。熊本で創業96年の高級洋品店を営む両親のもとに生まれた山田は、幼い頃から高品質な日本製衣料に囲まれて育ち、自然と服飾業に興味を持つようになった。

 大学在学中にフランスへ留学。現地では高級ブランド、グッチに勤務しながらも、衰退する日本のファッション業界の復活を果たしたいと帰国の途についた。

 しかし夢の実現は遠かった。帰国後、山田はIT系企業を経て、ファッションの大手通販会社に就職。韓国、中国を中心にしたアジアのファッションの通販業務に携わっていた。自身の夢とはかけ離れた仕事内容。内心忸怩たる思いを抱えていたが、グッチ時代の友人からのメールで覚醒した。

「お前はそれがやりたくて日本に帰ったのか? 目を覚ませ!」

 山田は通販会社の退職を決意。その時、偶然目にしたのが、高い技術力を持つ「HITOYOSHI」のシャツが、阪急メンズ館(東京・有楽町)で人気を集めているという新聞記事だった。

「故郷の熊本でファッションに情熱をかけている人がいる」

 山田はすぐさま人吉に飛んだ。飛び込み同然の山田に対して吉國は熱弁を振るった。

「トミヤアパレルの子会社だった時代は年間に30万枚もシャツを作ってきた。その多くが海外の有名ブランド。世界が認めた高技術だ。高級シャツに特化すれば生き残れる」

 吉國の熱い言葉に山田も同調した。その場ですぐに山田は申し出た。

「一緒にこのブランドを育てていきましょう」

 その言葉に、吉國もまた熱く応えた。

「これまで2億枚以上も作ってきた。その中でも最高のシャツを作ってやる」

「HITOYOSHI」の工場には、襟、袖、ポケット、カフスなどの部位ごとに、20年、30年の職歴がある専門の職人がいた。

「これぞ『メイド・イン・ジャパン』。その技術を絶やしてはならないと熱くなりました」

 山田は最高の技術に、最新のデザインを融合させたいと考えた。もっと日本人の趣向に合わせ、デザインを洗練させる必要がある。そこで男性ファッション誌の編集長やカリスマスタイリストなどにアドバイザーとして意見を求めることにした。

 地方の工場が立ち上げたブランドに最初から全面協力は望むべくもないと覚悟はしていたが、面会にこぎつけるまで手紙や電話を繰り返した結果、粘り勝ち。彼らの協力を得ることができた。

 さらに、山田は工場直販の提案も行なった。日本の繊維業界は工場から小売店までの間に商社、メーカー、卸など多い場合で7つもの業態が入り、「HITOYOSHI」が手がけるクオリティのものなら、2万5000〜3万円の高額シャツになってしまう。

「欧州では工場直販が一般的。流通を簡素化すれば同じシャツが1万円で消費者に提供できるし、我々も十分に利益を得ることができます」

「HITOYOSHI」が阪急の依頼を受けて販売する方式は、この直販に近かった。利益率も高い。しかしさらに販路を広げるには全国展開しかなかった。

 山田はインターネット販売の「ファクトリエ(ファクトリーとアトリエの複合)」を起業。ネットを通じて全国販売に乗り出すことになった。

「既存のシステムの否定は様々な障害を生みます。でも僕らには躊躇する時間はありません。“今日を逃すな”と互いに声を掛け合ってきました。今を逃しては次がないのです」

 今では阪急メンズ館のシャツ売り場の4割を同社のシャツが占めるほどの人気を集めている。

■取材・構成/中沢雄二(文中敬称略)

※週刊ポスト2013年6月7日号