なぜ「掃除・片づけ」が人生に関わるのか-5-

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■TOPIC-5 何でも楽しくするという思想

ここまで、掃除・片づけ本とその関連書籍の系譜を追いながら、どのように掃除・片づけと人生の好転や夢の実現が結びついてきたかをみてきました。TOPIC-1で示した検証のチェックポイントを回収しつつ、これまでの追跡をまとめてみたいと思います。チェックポイントは3点でした。(1)掃除や片づけを自己啓発に結びつける着想のルーツはどこか。(2)掃除・片づけによって人生を変える、夢をかなえる、自分らしさを実現するといった個別の着想はいつ頃、誰によって、どのように示されたのか。(3)掃除・片づけ本と隣接するジャンルの動向は影響しているのか。

まず掃除、つまりきれいにすることに関しては、仏教や神道などの宗教的背景がそもそもあったのですが、1994年あたりから、鍵山秀三郎さんを中心とした修養としての掃除への注目が高まっていきました。バブル崩壊を経て、これからは心の時代だと考える人々が、心を磨く手段としての掃除、社員の人間性を高め企業の業績を上げる手段としての掃除に注目したのだと考えられます。

また、数多ある整理・収納に関する女性向けのハウ・トゥ本のなかから、やはり1990年代中頃に生き方と整理・収納を結びつけるような考えが示され始めます。しかし当時、そのような考えはまだ「気恥かしい」ものとして示されていました。2000年代に入り、そのような気恥かしさではなく、確信をもって、持ち物の整理は人生を変え、夢をかなえ、自らを発見することにつながると主張するアメリカの生活整理本が翻訳刊行されます。このあたりから、家事と人生・夢の結びつきは始まっているようです。

ちょうどその頃、辰巳渚さんの『「捨てる!」技術』を端緒として、捨てることを前面に押し出す著作が多く現われていました。やはり同じ頃、「片づけられない女たち」という言葉が同名の著作から広がり、モノを溜めこみ、捨てることのできない人々という一つの社会問題として認知されるようになっていました。そして片づけという言葉はこのような文脈、つまり掃除(きれいにする)とも収納(しまう)とも異なる、「捨てる」ことを決然と行うという文脈で使われていくようになります。また1990年代中頃には、掃除・片づけは風水を通して、緩やかにスピリチュアルな領域と結びつけられてもいました。

このように見てくると、舛田光洋さんの『夢をかなえる「そうじ力」』、小松易さんの『たった1分で人生が変わる片づけの習慣』、近藤麻理恵さんの『人生がときめく片づけの魔法』、クラター・コンサルタントのやましたひでこさんによる『新・片づけ術 断捨離』といった近年の代表的な掃除・片づけ本の発想は、かなりの部分が事前に出揃っていたことになるといえそうです。

■独創でもパクリでもなく

ただ、だからといって私は、近年の著作に独創性がないといいたいわけではありません。TOPIC-1でも示したように、私は自己啓発書(に限らないかもしれませんが)とは「差別化に差別化が重ねられていき、それを俯瞰して見ると、あるいは時を置いてみると自動運動しているように見える」メディアだと考えています。ベストセラーについて、それを天才の独創性だと持ちあげるのでも、あるいは「パクリ」だとこきおろすのでもなく、何を先行する言論から引き継ぎ、何を新たに差異化して提示しているのかを考えるほうが、より私たちが分かることも増えるのではないかと思うのです。

では、近年の著作の何が新しいといえるのでしょうか。まず率直にいえば、まったく新しい「発想」というのは、ほとんどないのではないかと思われます。新奇性を見出せるのは、「組み合わせ方」という水準においてだと私は考えます。たとえば舛田さんでいえば、鍵山さんの時点では自己の修養という文脈で考えられていた掃除の効用から一歩踏み出て、アメリカ発の生活整理術で語られていたような家事による夢の実現というアイデア、『脳内革命』などにもある人智を超えた存在への言及を組み合わせているところにおいて、これまでにない、差異化された著作になっていると考えられます。

近藤さんややましたさんの場合は、これまでの連載で幾度か言及してきた、女性的自己啓発書の文脈への引き込みにおいて新奇性があるように思えます。つまり、日常生活の一コマ(この場合は片づけ)と自己発見、人生の変革、夢の実現を結びつけていくという、この時期さまざまなジャンルで同時多発的に起こっていたムーブメントを取り入れ、片づけを他人ではなく自分の心を大事にするため、自分らしくあるため、自分を好きになるために使おうとするところに新奇性があるように思われます。彼女らの場合は本人のタレント性も大きく関係しているのかもしれませんが、発するメッセージという水準ではこのような結びつけ方の妙に特性があるように思われます。

ただ、組み合わせ方が新奇であることがすなわちベストセラーの条件だと簡単にいえるわけではないとも思います。というのは、小松さんの著作について考えるとき、そのキーポイントになっている、片づけ(捨てること)と人生、自己発見、仕事上の能力を結びつけるというアイデアは、先行する著作と比べて特段に新しいとはどうしても思えない(少なくとも私には)ためです。結局、なぜベストセラーが生まれたのかということの説明は難しく、事後的に解釈することしかできないように思えます。

■自己啓発書が書き換える倫理

ただ、このように系譜を追いかけていくなかで、掃除・片づけ本が売れる大まかな社会的背景については次のように考えられるのではないかと思っています。

TOPIC-4で述べたように、辰巳さんから小松さん、近藤さん、やましたさんへと受け継がれている一つの考えに、「もったいない」という考えの否定がありました。モノが不足している時代においては重要であった「もったいない」という美徳は、次々と新しい商品が登場し、そのなかで暮らしている私たちにとってはむしろ、暮らしづらさ、生きづらさの源泉となってしまう。だからこそ、「もったいない」という美徳から離脱し、やましたさんが述べるように「自分とモノとの関係性」を結び直そうというわけです。「モノをコントロールできる」状態に自らを変えていこう、と。

私がいいたいのは、モノが溢れる現代社会だから掃除・片づけ本が売れるのだ、という単純な話ではなく、そのもう少し先の話です。以前、連載第7テーマ「女性らしさ」の回で、食というごく個人的な行動は「自分らしさ」に結びつけられやすいという話をしました(http://president.jp/articles/-/8662)。モノを買う、持つ、捨てるといったことも、同じように「自分らしさ」に結びつけやすいとは思わないでしょうか。

消費社会が成熟してくると、つまりモノが不足していた時代が終わり、ただモノの機能を求めて消費するのではなく、自分にふさわしいモノのイメージを求めて消費する(およびモノの作り手もイメージを念頭において生産する)時代になってくると、消費は「自分らしさ」と不可分のものになってきます。自ら選択してどんなモノを身にまとうか、どんなモノを家に置くか、どんなモノを食べるか、等々。そしてどんなモノを残し、また捨てるか。

私たちの日常において、こうしたモノをめぐる取捨選択は、多いときは一日に何度も私たちの前に押し寄せるものです。消費行動という、溢れる選択肢のなかから何かを選び捨てるという行為の蓄積は、さほど意識はしていなかったとしても、私たちが何を欲しているのか、どんな自分でありたいのかを少しずつ私たちのうちに、また外見上に形づくっていくのだとは思いませんか。

社会学者ジグムント・バウマンは、このように生きればいいという指針が揺らいだ、寄る辺なき現代社会において、唯一「アイデンティティの核」となるのは「選んでいる人」であることだと述べます。つまり述べてきたような、商品を選び、自らに取り入れまた外すというその選択の仕方、選択の感覚——これは流行に応じて柔軟に書きかえられねばならない——こそが、現代を生きる人々に残された、有力な「自分らしさ」の手がかりなのだ、と(『リキッド・ライフ』63-65p)。

バウマンの指摘を踏まえると、どんなモノを家に置くか、捨てるか、そして今後何を厳選して取り入れていくのかといった考えの組み替えを扱う著作がベストセラーになることは、いかにもありそうなことだと思えるようになります。現代社会を生きる私たちに取って、消費行動は「自分らしさ」を実現し、また新たにそれを更新していく、毎日行われ続ける最も身近な心理療法のようなものであり、またモノについての考えを変えることも同様に身近なセラピーなのですから。

ここまで考えを進めたとき、面白いと思うのは、近藤さんややましたさんが、バウマンが述べるような「選んでいる人」に積極的になろうとしているということです。「来る日も来る日も販売期日の過ぎたものを捨て続け、アイデンティティを構築しては解体し、身にまとっては脱ぎ捨てるという作業をし続けねばならない」(『リキッド・ライフ』10-11p)という、消費を通して「自分らしさ」をまとい続ける行為にうんざりして身をひくのではなく、積極的にまとい続けようとしているのです。

たとえば近藤さんの場合であれば、好きなモノだけに囲まれることで「自分らしさ」をより高い純度で感じ取ろうとし、やましたさんであれば、「どんどん旬のモノを取り入れて」、世の中のエネルギーを積極的に取り入れていこうとしています。いずれにせよ、モノが「自分らしさ」を形づくるということを肯定的に受け入れ、それを楽しんで泳いで行こうとするような積極的な姿勢がみられるのです。もう少し正確にいえば、ただ泳ごうとするのではなく、消費社会を泳いでいくためのコンセプトを自らの内にはっきりしたものとして定め、突き進んでいくという積極性だといえます。

これは1970年代のフランスについての分析からですが、社会学者ピエール・ブルデューは、その当時新たに登場してきた職業のなかに「欲求の商人たち」「倫理的前衛」とでも呼べるものがあると述べています。それは自分が主張する価値観や生き方の体現者として自分自身を売り、新たな価値観を世に発信するような人々のことです。そしてこうした人々が示すのは「義務としての快楽」であるとブルデューは述べます。楽しくあろう、誰にも邪魔されずにあなたらしく生きていこう、というように(『ディスタンクシオンII』176-188p)。

フランスと日本、1970年代と現在という具体的な文脈の違いはあれど、自己啓発書の書き手とはこのような、現代に生きる「欲求の商人たち」「倫理的前衛」なのだと私は考えています。自らをその体現者として、新たな価値観を発信し、その基本として自分以外の何物にも煩わされない——他者中心ではなく自分中心、自分の心の奥底にある感情やときめきを大事にせよ——こと、つまり「自分らしさ」を主張する。そして新たな価値観の実践は楽しく行われるべきだとも主張する。もし近藤さんややましたさんの著作がよく売れたことをあえて解釈するなら、消費することの楽しさを損なわず、また捨てることも楽しみへ変えていこうとする姿勢を貫き通したことにある、といえるのかもしれません。

さて、かなり長い回になってしまいました。第7テーマ「女性らしさ」、第8テーマ「手帳術」、そしてこの第9テーマ「掃除・片づけ」と、日常生活の些細な一コマを通して自分を変え、人生を変え、夢がかなうとする言論がどのように登場してきたのかを追ってきました。「夢」についてはまだもう少し考えたいと思っているのですが、とりあえずここで一旦打ち止めとしたいと思います。

いずれにせよ私たちは、日常生活のすぐそこに、自己啓発の世界への誘いが仕掛けられている社会に生きているといえます。連載でとりあげてきた自己啓発書のことは知らなくとも、既に似たような考え方をしている、共感することがある、という方もいたと思います。しかしそのような考え方は、ほんのここ十数年のあいだに広まったものに過ぎないのです。こうした意味で、私たちは「自己啓発の時代」に生きているのです。

次回はテーマを大きく変えて、もう少しシンプルに論じていきたいと思います。次回テーマは「スポーツ」です。

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『脳内革命』
 春山茂雄/サンマーク出版/1995年

『リキッド・ライフ』
 ジグムント・バウマン/大月書店/2008年

『ディスタンクシオンII』
 ピエール・ブルデュー/藤原書店/1990年

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(牧野 智和=文)