先日、富山県の「五箇山 合掌の里」へ行く機会がありました。1995年に世界遺産に登録されたこの地区は、かつては険しい山岳地帯だったために「秘境」とも呼ばれていたほど。急傾斜の切妻造り・茅葺きの合掌造りの家が建ち並んでいて、周りの豊かな自然と相まって、まるでタイムスリップしたかのような感覚にとらわれました。もし大勢の観光客がいなかったとしたら・・・ですが。これぞ日本の伝統的な建築様式のひとつでしょう。

色の世界にも伝統があります。国や地域、それぞれの文化により違いはありますが、皆、古くから親しまれてきたものです。
日本においては、聖徳太子の時代からすでに色を身分の違いを表すアイテムとして、使用していました。それぞれの位を色で表現するというものです。その中でも一番位の高い人が身に着けていたのが紫です。天然の植物などから染められる色はたくさんありましたが、紫を染められる植物は種類も量もとても少なく手に入りにくかったため、大変貴重なものとされていました。そのため、位の高い人の色となったのです。
その後の時代では、特定の色の使用を禁じられ、使用を制限されるということもありました。皇室の方々のみが使用する色、紫と同様に高価な染料で染められるもの、などです。それでも人々はさまざまな色を身に着けたいと思っていたこともあり、禁止された色の薄い色ならば、使用してもいいという条例も出されました。伝統色のひとつである「一斤染め(いっこんぞめ)」は、赤の染料である紅花一斤=約600グラムで二反分の絹を染めてできるような色、つまりとても薄いピンク色の色名です。なかなかおしゃれなネーミングで、昔の人のセンスには、脱帽ですね。
室町時代、茶人 千利休は「わびさび」の地味で落ち着いた色を好みました。それに対抗するかのように同時代豊臣秀吉の金の茶室に見られる派手な色の演出で、権力を見せつけました。江戸時代も後半には、経済力をつけて豪華な衣装を身に着けるようになった町人の動きをいましめるため、「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)を出し、派手な染色などを制限しました。このように、色はその時代に大きな影響を与える重要な要素のひとつとなっていたのです。

さて、五箇山は江戸時代、和紙や養蚕、鉄砲の火薬の原料である「塩硝(えんしょう)」が主な生産品でした。塩硝は草や土、蚕の糞などを原料として、堆肥を作る要領で、数年かけて抽出する方法が用いられていたそうです。当時の加賀藩は幕府に内緒でこの作業を進めていたため、煙硝の煙の文字を塩にして、秘密裡に行っていたと言われています。そのため、冬は豪雪地帯であるこの地区が選ばれたのでしょうが、実はこれを運び出すためにはいくつもの山を越えるなど、かなりの道のりがあり、大変な行程だったと考えられます。昔の人には本当に脱帽です。