第一三共 社長兼CEO 中山讓治(なかやま・じょうじ) 1950年、大阪府生まれ。76年大阪大学基礎工学部大学院生物工学科修士課程修了。79年ノースウエスタン大学大学院でMBA取得、サントリー入社。2000年サントリー生物医学研究所社長、02年第一サントリーファーマ社長。03年第一製薬取締役、07年第一三共執行役員欧米管理部長、09年常務、10年副社長を経て社長兼CEOに。

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■300人と新社へ 心をひとつに結集

東京・日本橋本町にある本社ビルの一角に、昨年2月、「くすりミュージアム」をオープンした。薬は体の中をどう動いていくのか、薬の種はどうやってみつけるのか、みつけた種をどう薬にしていくのかなど、薬に関する様々なことを、やさしく解き明かす。楽しめるように、クイズやゲームも混ぜている。

中高生を中心に、年間に約1万6000人が訪れ、夏休みには会社の研究者たちがきて、いろいろな実験を教えている。もちろん、無料だ。見学を終えた少年少女たちから、ときに「製薬会社って、人々にとってほんとうに大切なものを提供する、やりがいのある仕事なんだ。やってみたいな」といった感想が出る。

社員たちがそれを聞けば、すごく喜ぶだろう。常日ごろ、家族や知人に病気で苦しむ人がいれば、誰もが「何とか役に立ちたい」との思いを強める。その思いが1つにまとまれば、さらに社会の期待に応えていく力となる。ミュージアムは、世の中への発信基地であるとともに、社員の心を1つにする拠点でもある。

40代半ばまで、そんな薬の世界に関わることになるとは、思いもしなかった。サントリーにいた1996年3月、突然、医薬事業部の企画部長となる。医薬事業は総勢約350人で、毎年大きな赤字を出して、苦闘が続いていた。驚きの人事ではあるが、「そうか」と思うところもあった。前回(http://president.jp/articles/-/9375)触れたように、企画部課長時代に21世紀の会社の姿を描くビジョンをつくったが、業績はその軌道からはずれていた。

やはり、事業の「選択と集中」が必要だと考え、内々に部下を使い、ウイスキーの売り上げがもう10年下がり続けると想定し、どの事業をやめるべきなのかを探ってみる。答えは「医薬かビールのどちらかをやめたほうがいい」だった。それも、1、2年のうちにやめないといけない、と出た。結果を、取締役会で報告する。1カ月後、上司の企画部長に「じゃあ、医薬へいってくれ。思う存分、やってこい」と言われた。

担当すれば「医薬だけはつぶしたくない」となる。だが、薬はつくっても販売部門を持たず、他社に売ってもらう仕組みで成り立っていくのか。累積赤字を、どうやれば消せるのか。考えたら、トンネルから抜け出すのは難しい。それでも、何とかしてやると思う。「撤退」とか「敗北」という言葉が、嫌いだった。

生き残るためには、やはり、大きく成長する新薬が必要だ。薬の種を持つ米ベンチャー企業と西海岸に合弁会社をつくり、ボストンには新薬承認に必要な臨床開発会社も設立した。国内の研究開発部隊には自立と収益責任の自覚を求め、研究所を分社化する。みんな、サントリーの籍を離れるから、将来を不安に思うのは当然だ。でも、1人も、離脱者を出したくない。1人ひとりと、じっくり、話し合う。危機感を共有していくうちに、みんなの心のベクトルが、1つに結集されていく。40代の終わりが、近づいていた。

だが、手を尽くしても、赤字が続く。ついに、経営陣は事業売却へ踏み出す。ある外資系企業が有力となった。でも、100人から150人もの人員削減が先方の条件だと聞いて、抵抗する。心を1つにして立て直しに取り組んできた仲間を、見捨てることはできない。全員を引き取ってくれる売却先を探すと言って、時間をもらう。自社のある製品を売っていた第一製薬が、頭にあった。

社長の許可を得て、交渉に臨む。第一の社長は、全員を引き取るだけでなく、自社の社員と同じ条件で処遇することまで約束してくれた。第一が3分の2、サントリーが3分の1出資した第一サントリーファーマが設立され、その社長に就く。その後、予定通り、第一の100%子会社となる。経理などの面々はサントリーへ戻ったが、約300人の研究開発部隊は、そっくり籍を移す。

その数カ月前、医薬事業の立て直しでたいへん世話になった先輩に、呼ばれた。「300人は移籍が決まったが、きみはどうする。一緒にいくか、サントリーに戻るか?」と尋ねられた。第一は技術系の人間だけがほしいのであり、自分は邪魔だろう、と考えた。でも、仲間たちの行く末を見届けるのが自分の責務だ、と決める。いま、第一サントリーファーマはアスビオファーマに衣替えし、新薬開発に思う存分取り組んでいる。振り返れば、300人の仲間と一緒に動き、1つの心になれて、ほんとうによかったと思う。

「用兵攻戦之本、在乎壱民」(用兵攻戦の本は、民を壱にするに在り)――戦うときの基本は、民の心を1つにまとめることだ、との意味だ。中国の古典『荀子』にある言葉で、いくら武器や兵糧を整えても、民の心がばらばらであったら、戦いに勝つことはできない、と説く。難題を克服していくとき、常に部下たち、社員たちの心を1つにして臨もうとする中山流は、この教えと重なる。

■「多様化」で開く 日本代表の地平

2005年9月、第一製薬と三共は持ち株会社を設立し、1年半後に事業統合を終えた。そのとき、新設された欧米管理部長となる。実情をつかむため、各拠点のトップたちと会って悩みを聞くと、「本社からいろいろうるさいことを言われる」という声が多い。すぐに、どこまでは現地に任せ、どこから先は報告や相談を求めるかの基準を明確にすることにした。そのために、社内規定も改めた。海外拠点のトップたちは歓迎し、「在乎壱民」が進む。2年後、世界中の拠点をみる海外管理部長になり、同じ基準を全世界に広げた。

社長になる前、第一三共は「ハイブリッド経営」を打ち出した。大黒柱の新薬の開発・生産に加え、特許が切れて参入が可能となる後発医薬品(ジェネリック)、日本が出遅れていたワクチン、薬局で売られる一般薬品(OTC)の計4事業を柱にしていく戦略だ。国内業界では、独自の路線で、そのすべてで資金力のある世界の強豪企業と戦っていくには、かなりの体力や戦略の強化が不可欠だ。だから、日本の製薬各社はそこまでは踏み出していない。

ただ、どれも薬を核とする事業であり、縁の薄い事業に出ていく「多角化」ではない。あくまで、医薬の世界での「多様化」だ。日本は高齢化が進み、国の財政難もあって、医療費の抑制傾向が続く。でも、だからこそ、価格が低いジェネリックへのニーズは高い。すでにインドの大手ジェネリック企業の過半の株式を取得し、傘下に入れた。国内で製品を扱う子会社も設立した。

ワクチンでは社長になった翌年、学校法人北里研究所と一緒に、製造会社をつくった。欧州の製薬大手グラクソの日本法人と、販売会社もつくり、営業を始めた。子宮癌の予防などの製品を、扱っていく。

挑戦すべき地平は、いま、大きく広がっている。当然、「ハイブリッド経営」を引き継いだ。体力や戦略の強化には、「心が1つの会社」という支柱もある。それを太くしていけば、必ず地平は開ける。だから、前回(http://president.jp/articles/-/9375)触れた支店や工場を訪ね、社員たちと直に話して回る「全国キャラバン」は、続けたい。

キャラバンで、たびたび使う言葉がある。「Small at Heart」だ。会社の規模がどんなに大きくなっても、気持ちの上では、1人ひとりを大切にする小さな会社のようであり続けたい。そんな思いを表している。会社の機能はいくつにも分かれ、役割分担によって成り立っている。そうした分業が1つに結集し、事業を成し遂げている。だから「営業と生産の現場は離れているが、ぜひ、お互いに努めて情報交換をして下さい」と呼びかける。

営業部門は、扱っている製品がどこで、どのようにつくられているのかに思いを馳せる。生産部門は、つくった製品がどうやって医師や患者のところへ届き、どんな評価を受けているのかを知る。遠く離れた同士でも、「在乎壱民」は可能だ。

(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)