アベノミクスで株価が上がりデフレ脱却が果たされたとしても、雇用や賃金が増えなければ、多くの国民は恩恵どころかインフレ下で生活苦に陥る。慶應義塾大学大学院教授の岸博幸氏は、政府が「賃金を上げろ」と言うだけでは問題は解決しないと指摘する。

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 20年も続いてきたデフレからの脱却を試みるアベノミクスの財政・金融政策は今のところ正しい方向に進んでいる。その点は評価されるべきだ。しかし、雇用と賃金を改善しようとするならば、さらなる進化が必要だ。
 
 安倍首相が2012年度補正予算を閣議決定した際、「60万人の雇用が生まれる」と発言したことからもわかるように、アベノミクスではまず財政出動で需要を作り、雇用を生み出そうという発想がある。
 
 また、官民ファンドの設立など政府のカネで企業の競争力強化を図り、収益を改善させて雇用・賃金へのプラス循環につなげようとしている。だが、政府主導での産業競争力の強化には限界があるし、現代においては企業の競争力強化がそのまま雇用・賃金の改善につながるわけではない。

 理由はグローバル化とデジタル化だ。別の言い方をすれば「労働者のライバルが増えた」ということである。
 
 グローバル化によって企業が生産拠点を海外へと移し、新興国の安い労働力を活用するようになって久しい。さらに2000年代に入ってからは、コンピュータやロボットが効率的な生産を行なうことで企業は利益を上げてきた。
 
 2000年代後半からこのデジタル化の動きに拍車がかかった。今後、日本の労働者にとっては新興国の労働者だけでなく、コンピュータやロボットも競争相手となる。
 
 例えばアップルのノートパソコンの一部は米国内で製造される。高度なロボットを活用することで、新興国の安い労働力に伍していける効率的な生産ができるようになったからだ。ただし、こうした工場ではほとんど人の姿は見られない。生産拠点が回帰しても雇用は生まないのである。
 
 ビジネスプロセス全体をコンピュータとネットワークの世界で成立させられるようになってきたため、デジタル化の流れは製造業だけでなく、あらゆる産業分野に及ぶ。
 
 結果、米国は2000年代の10年間で年率約2%の経済成長を達成してきたにもかかわらず、雇用者数は増えるどころか1%減少した。米国の中流家庭の家計収入は、デフレでもないのに約9%も減った。生活は厳しさを増している。

※SAPIO2013年5月号