21世紀の日本では、こんなに「通り魔殺人」が起きている!

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■インターネットは絆になるか?

今日、犯罪の変遷において語るべき最大の特徴は、「ドラマとしての犯罪」から「病理としての犯罪」へと性質が変化したことである。犯罪は物語性を失い、物語を読み解く「犯罪評論家」の出番はなくなった。代わって、個人の病理を診断する精神病理学者が解説役を務めている。

変化のきっかけは、1980年代から顕在化した「家族の崩壊」である。伝統的な犯罪は、家族などの濃密な関係性ゆえに引き起こされたものが大半だった。しかし80年代以降は、家族のしばりがなく、関係性において未成熟な人が罪を犯すようになっている。したがって人間関係から物語性を見出すよりも、ある条件下の個人が病理として犯罪に至ったのだ、と論じるほうが理解されやすくなったのである。

家族が崩壊したとすれば、人はどこへ「つながる」のか。一時は「イエスの方舟」のような新宗教が家族を代替すると思われたが、それもオウム事件で破綻した。次に現れたのがインターネットだが、この関係性は希薄かつとらえどころがなく、いまのところ人々をつなぐ絆とはなりえていない。

かつて日本人は定住を基礎とした農耕社会の中で、濃密な対人関係という強い線で結ばれていた。個人の病理は早い段階で社会が吸収し、犯罪の芽を摘むこともできた。しかし関係性が失われたいま、個人は点としてしか掌握されることがない。それゆえ病理が犯罪行為として突出する。2008年の「秋葉原通り魔事件」の犯人のように、サイバースペースからいきなりナイフを持って現実社会に躍り出てしまう。もし彼に濃密な人間関係の線が1本でもあれば、事件は起きなかったかもしれないし、起きても軽微なものにとどまっただろう。

この事件が象徴するように、最近は他人と皮膚感覚を共有できない若者が増えている。そのため凶器で刺すときに実感がなく、痛みが自分に返ってこない。実は私たちの演劇のワークショップでも、いちばんの悩みはこうした感覚のズレである。

皮膚感覚を育てるのは他人との関わり合いだ。取っ組み合いの喧嘩など相手と向き合う経験を重ねるうちに、他人の痛みを自分のものと感じるようになり、やがては条件反射的に相手の痛みを拒絶するようになる。そうした経験ができにくいとしたら、不自由な社会だというほかない。

「ふつう」という感覚の消失も、病理の拡大を後押しした。かつて日本ではふつうに教育を受け、ふつうに職を得、ふつうに結婚することが犯罪に至る衝動や不満を吸収していた。この「ふつう」はたいへん懐が深く、ある意味で人々の最大の逃げ場であった。

ところが経済成長の裏側で「ふつうであること」は神通力を失い、バブルが崩壊しても旧に復さなかった。相変わらず消費を煽る情報に踊らされ、われわれはいつまでも民俗学でいう「ハレ」から「ケ」に戻ることができない。経営破綻したテーマパークを無理やり存続させるような奇怪な行為が国のあちこちで続いている。実に気持ちの悪い「半ハレ」の状態なのだ。

昔のラジオにはアースがあった。アンテナから受信し、大地へアースする。いまの日本人はアースを失ったラジオである。「半ハレ」を断ち切り、皮膚感覚を取り戻し、ふつうの感覚を取り戻すには自らの「根っこ」を再認識することだ。たとえば演劇に方言を取り入れると、標準語を使うよりも濃く深いコミュニケーションが可能になる。私はそこに希望を見出したい。まずは自らの内なる方言に「アースする」ことから始めよう。

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劇作家 
別役 実
1937年、旧満州生まれ。早大政経中退。劇作家として岸田戯曲賞など受賞多数。犯罪や世相についての評論でも知られる。

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(劇作家 別役 実 構成=野崎稚恵 撮影=尾崎三朗)