「手帳術」から見る社会-4-

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■TOPIC-4 手帳術が定着する社会とは

手帳と社会の関係を考えようとすることはかなり奇特なことであるためか、ほとんど例をみることができません。社会学者の天野正子さんが1991年の時点で論考を書かれていますが(天野正子・桜井厚『「モノと女」の戦後史』)、近年については、管見の限りでは幾度か紹介している手帳評論家の舘神龍彦さんの『手帳進化論』のみではないかと思われます。舘神さんは、手帳といえば企業が配布する年玉手帳(名入手帳)だという時代が終わって、市販の多種多様な手帳が隆盛してきた昨今の状況について、次のように解釈しています。

明治初期に発行された、国家の手になる「懐中日記」や「軍隊手帳」、そして企業の手になる名入(年玉)手帳は、発行元である「共同体」の時間感覚を体現するものであり、その手帳を使用するということはすなわちそれらの「共同体への帰属感覚を生じさせるものでもあった」とまず舘神さんは述べます(『手帳進化論』19-20p)。

しかし1980年代、自由に内容を入れ替えできるシステム手帳が登場し、手帳は企業の理念や行動規範といった「共同体の影」(26p)から解放されることになるといいます。1990年代以降の不況では年玉手帳を廃止する企業が増え、人々は市販の手帳に移行するようになるが、それもまたある部分で共同体への時間感覚・帰属感覚からの離脱を意味することになった、と。

同時期、終身雇用制が揺らいでいくなかで、「ビジネスマンは自らの生存≒雇用を継続するため、あるいは、よりよい条件の場所に移るため、時間をより有効に使い、生産性を上げ能力を発揮し、評価されなければならな」くなったといいます(32p)。こうして、手帳には「共同体への失われた帰属感を埋める」ことと、「有限の資源である時間を有効、能率的に使うための道具としての役割」の双方が期待されるという状況が生まれた、と舘神さんは述べています(33p)。さらに舘神さんは、有名人の手になる手帳は、そのカリスマによって「終身雇用制の時代にはあった共同体への帰属感を代替しているとはいえないだろうか」という仮説も示しています(38p)。

舘神さんの解釈は間違いではないと思うのですが、このような解釈は果たして手帳のみにいえることだろうかとも思います。特に後半部分は、自己啓発書一般についてもほぼ同様に当てはまるような解釈ではないでしょうか。企業という共同体が定年まで面倒を見てくれるか定かでない今、自分自身の能力で生き抜いていくために、自らの生産性を上げる道具としての役割が自己啓発書には期待されている。そして、幾人もの有名な自己啓発書の書き手が、そのカリスマによって、寄る辺なき時代を生き抜いていくにあたっての不安を埋め合わせてくれている、というように。つまり舘神さんの解釈は、手帳(術)独自の傾向を明らかにするところまではたどり着けていないと思うのです。

また、書店では「手帳術」の近辺にはノート術やメモ術に関する書籍がしばしば並んでいる、あるいは一冊の書籍の中に「手帳術」・ノート術・メモ術がそれぞれ詰め込まれているという場合があります。このように、手帳だけでなく、ノートやメモの使い方にも注目が集まり、しばしばそれらが「手帳術」と一緒くたに語られるということは、どう考えることができるのでしょうか。

用途という観点からみても疑問が浮かびます。手帳の主要な用途である時間管理を主題として扱う書籍は、終身雇用制が揺らぐ以前から連綿と刊行され続けています。発想法に関する書籍も同様です。夢をかなえる、「自分らしく」なるといったことも、「手帳術」関連書籍が初めてとりあげたのではなく、それ自体の先行する系譜があるわけです(「自分らしさ」についての系譜の一部は拙著『自己啓発の時代』4章を参照)。これらとの関連はどのように考えるべきでしょうか。

舘神さんの解釈は、社会的背景に関する総論としてはよく当てはまると思うのですが、より細かく考えていこうとするとき、このようにいくつかの点で行き詰まってしまうところがあります。もちろん、総論として当てはまりの多い解釈枠組は、それはそれとして意義があるのですが、この先に進んでより理解を深めようとするならば、少し違った考え方をする必要があると私は考えます。

■「なぜ」から「どのように」の発想へ

それは「なぜ」と「どのように」を区別することです。舘神さんの議論は概して、システム手帳の登場、終身雇用制の揺らぎといった原因を定めて、手帳の利用のされ方や「手帳術」の変容を捉えようとする「なぜ」の考え方をとっているといえます。これは、社会的現象が起こるに至った大きな文脈を捉えるには有意義ですが、先にいくつか述べたように、より細かく考えていこうとする際に行き詰ってしまうことになります。

ここで、原因ではなくプロセスを追う、「どのように」の考え方を採用することで、その先に進むことができると私は考えます。「手帳術」がより具体的にどのようにして登場したか、その内実はどのように変わってきたか、他の啓発書ジャンルはどのように影響を及ぼしてきたのか、同じような位置づけの啓発書ジャンルはあるのか、著者や編集者はその時々でどのように考えて情報発信を行ってきたのか(これは本連載では扱えていませんが)、等々を考えていくのです。私がTOPIC-1から3で行ってきたのは、この「どのように」のアプローチでした。

「なぜ」と「どのように」の区別は、プッシュ要因とプル要因という区別に近いものです。つまり、市販の手帳を自ら購入すること、それによって自らを管理することへと押し出す社会的背景(プッシュ≒なぜ)と、手帳(術)がどのような内実をもって人々を惹きつけ、また人々に影響を与えているのか(プル≒どのように)を区別して、双方から社会的現象について考えてみようというわけです。

「どのように」を追いかけ、社会的現象の内実をつぶさに見ていくことで、社会的背景から「なぜ」を説明しようとする解釈とは異なる解釈を示せるようになります。その解釈のベクトルは、社会から手帳(術)を説明するのではなく、手帳(術)から社会について考えるという向きをとります。このテーマに関していえば、前回第7テーマの後半から繰り返し述べている、日々のあらゆることがらを自己啓発の素材にしていこうとする「日常生活の『自己のテクノロジー』化」という解釈がそれです。

TOPIC-1から3で幾度か述べてきたことですが、私は「手帳術」はこの動向の一端であると考えています。この観点から整理するならば、「手帳術」が定着するような社会とは、手帳をつけるという日常生活の些細な一コマに、大きな意味を持たせる社会なのだ、ということになります。言い換えれば、日常生活が気づくと自己啓発の実験場と化してしまうような現代社会とは、日常生活の過ごし方や考え方を少し変えるだけで、そこから夢の実現や人生の変革といった「一点突破・全面展開」が可能なのだと主張できるほどに、日常生活そのものに濃密な意味・哲学・理論を詰め込もうとする社会なのだと考えられます。
このとき、ノートやメモへの注目も、日常の微細な一コマに多くの意味が詰め込まれる事例の一つと位置づけられるようになります。また、時間管理や発想、夢や「自分らしさ」に関する書籍の動向に独自のものがあることを認めながら、それらがどのように「手帳術」と結びついてきたのかを分析していくことができるようにもなります。ただ、これに関して今回行えたのは、梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』との関連の指摘のみでした。

そこで次のテーマにおいて、隣接する領域の動向をより意識的に押さえながら、「どのように」の系譜を追いかけてみたいと思います。それは、手帳やノートやメモといった「書く」こととは違うのですが、やはり日常的な一コマに、夢の実現や自分自身の変革が託されるようになっていく系譜です。というわけで、次回のテーマは「そうじ」です。より具体的に考えてみたいのは次のようなことです――「そうじ」と夢や人生の結びつきは、いつ頃、誰の手によって、どのように生じたのか。

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『「モノと女」の戦後史』
 天野正子・桜井 厚/有信堂高文社/1992年

『知的生産の技術』
 梅棹忠夫/岩波書店/1969年

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(牧野 智和=文)