去る19、20、21日の3日間、オリックスバファローズ福岡ソフトバンクホークス3連戦が「OSAKA CLASSIC 2013」と銘打ち行われた。
 バファローズは前身の大阪近鉄バファローズ、ホークスは大阪を本拠としていた南海ホークス時代のユニフォームで戦った。

 プロ野球では近年、オールド・ユニフォームのイベントが流行っているが、アウェイのチームが参加するケースは稀。ホークスも1988年まで大阪を本拠にしていたが、両軍のオールドファンには、さぞ懐かしいイベントになったことだろう。

 ただ残念なのは、試合が京セラドーム大阪で行われたこと。バファローズ主催試合だから当然だが、出来ることなら藤井寺球場でやって欲しかった。

 藤井寺球場は、1928年に開場。関西地方では、阪神タイガース阪神甲子園球場の完成から4年後、阪急ブレーブス阪急西宮スタジアムの9年前に誕生した。
 バファローズが本拠にしたのは、1950年と、1984年〜1996年。バファローズは1997年に大阪ドームに本拠を移し、主を失った藤井寺球場は2005年1月に閉鎖。2006年8月に解体された。

 そんな藤井寺球場だが、佐野正幸著「昭和プロ野球を彩った『球場』物語」(宝島SUGOI文庫)によると、昭和に建設されたパリーグの球場らしく、なんとも牧歌的な球場だった。
 1984年までは外野は天然芝だったが、右翼の守備位置にが出現。試合が中断したことがあった。
 ある試合では、グラウンドに肉が焼ける、美味しそうな匂いが漂っていた。左翼を守る栗橋茂が振り返ると、ファンがスタンドに七輪を持ち込み、焼肉をやっていた。
 ロッテオリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)が1978年〜1991年に本拠としていた川崎球場では、ファンが流しそうめんをしていたが、川崎が流しそうめんから、大阪は焼肉。「おーい、クリ。お前もこっちきて食べろや」とのファンのヤジに、栗橋は苦笑するしかなかった。

 そんな藤井寺球場には、1984年まで照明設備が無かった。

 わが国初のナイトゲームは、1948年8月17日に横浜ゲーリッグ球場で行われた読売ジャイアンツ中部日本ドラゴンズ(中日ドラゴンズ)戦。これを皮切りに、多くの球場でも照明設備の設置が始まった。
 藤井寺球場でも、スタンドの拡張人工芝の張替えスコアボードの改修雨天練習場の改良などが進んだが、照明設備の導入だけは遅れた。

 理由は、周辺住民が反対したため。球場を所有する近鉄興業社は1973年に着工したが、ナイター公害を懸念した住民は、大阪地方裁判所工事差し止めの仮処分を申請。地裁がこれを認めたため、照明設備の設置工事は、外野の鉄塔部分が完成したところ中断された。チームはこの間、近隣の大阪球場日本生命球場で、平日の公式戦を開催していた。
 決着を見たのは、着工から10年後1983年外野スタンド最上段に防音壁を設置すること、鳴り物入りの応援を禁止することなどを条件に、工事が再開された。翌1984年にようやく、照明設備に火が灯った。

 グラウンドに蛇が出現して試合が中断したり、ファンがスタンドで焼肉をしたり、地域住民と照明設備で揉めたりと、昭和のパリーグの匂いが漂う藤井寺球場だったが、その最後の試合は、今も多くのプロ野球ファンの記憶に残っている。
 最後の1軍公式戦となった1999年10月7日の対マリーンズ戦では、バファローズの盛田幸妃が登板。脳腫瘍で、一時は復帰が難しいとされていた中での、復帰登板だった。