イチローは「首位打者になる」という目標は決して立てない。(ロイター/AFLO=写真)

写真拡大

私事ではあるが、大変忙しい。大学での授業もあるし、研究室の学生たちとの議論、論文執筆。講演で全国を飛び回り、テレビの収録、原稿の締め切りもある。

そんな中で、私がほとんどストレスを感じないのは、ふりかえってみると、脳科学のおかげだと思う。

私の人生を考えてみると、30歳くらいまでは、案外イライラしていた。神経質で、いろいろなことを気にして、そのせいか身体にも影響が出ていたように思う。

象徴的だったのが、身体検査で、よく心臓が引っかかっていたことである。幸い、精密検査をすると何もない。今考えれば、メンタルなストレスが影響を与えていたのではないか。

それが、偶然かもしれないけれども、脳科学を始めた30歳くらいから、あまりストレスを感じなくなった。自分の好きなことを始めたから、という効果もあるかもしれないが、そもそも人間の脳はどのようにして働いているのか、知識と研究経験を得たということも、大きかった。

ストレスを感じないで働くための秘訣は何か。何よりも大きいのは、自分でコントロールできることと、できないことの区別をすることである。そのうえで、前者については全力を尽くす。後者については、うまくいかなくても諦める。そのようにして拘らないことが、人生からストレスをなくす秘訣である。

たとえば、恋愛。自分が相手を好きで、いろいろ働きかけても、相手の気持ちがどう動くかは予想ができない。ビジネスでも、取引先の意向はコントロールできない。自分としてはベストを尽くしても、その結果は相手次第。やきもきしても始まらない。

イチロー選手は、シーズン前に目標を立てるとき、「首位打者になる」とは決して言わない。他の選手がどれくらい打つかは自分でコントロールできることではない。あくまでも、自分の工夫できる範囲の、打撃についての目標を立てる。その結果首位打者になるかどうかは他の選手次第。やきもきしても始まらない。

自分でコントロールできる範囲を、脳は「エイジェンシー」(主体性)として知覚している。この範囲を見誤ると、自分がコントロールできないことまであれこれと悩むことになる。その結果、ストレスが溜まる。世の中を見ていると、そのような人が案外多い。

脳には、もともと、自分自身を治癒する能力がある。砂糖のかたまりを「薬だよ」と言って投与すると効いてしまう(「プラシーボ効果」)のは、脳がその気になるからである。その際に関与する神経回路も実験でわかっている。

ところが、ストレスをためると、脳の自己治癒能力を妨げてしまう。まさに「病は気から」で、体調を崩してしまうことも多い。せっかく一生懸命働いても、結果として調子が悪くなってしまっては、元も子もないだろう。

ストレスなく働くための秘訣とは、まずは、ベストを尽くすことである。しかし、相手次第で決まることについては、結果が悪くても、諦めることである。自分でコントロールできることと、できないことの区別。このシンプルな整理を実践すれば、大抵のストレスはこの世から消すことができる。

「仕方がない」「諦める」という言葉は、消極的なようでいて、実はベストを尽くす人の座右の銘でなければならない。ベストを尽くして、結果がダメなら仕方がないと諦める。この態度が、人生に太陽をもたらすことをもっと多くの人に知ってもらいたい。

(茂木健一郎 写真=ロイター/AFLO)