国立養蚕研究所の桑畑で桑の説明をするメイ・カリヤンさん。畑では何種類もの桑の葉を育て、カンボジアの風土にあった桑はどれか、研究所で育てるハイブリッド種のカイコのエサに適した桑はどれか、研究を重ねている=カンダール州で【撮影/木村文】

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朝日新聞のマニラ支局長などを経て2009年に単身カンボジアに移住、現地のフリーペーパー編集長を務めた木村文記者が、カンボジアの国産生糸復活を目指す動きについてレポートします。

養蚕が軌道に乗れば、この国の貧困削減につながる

 南国の強い日差しに映える色鮮やかな絹織物。古くから絹織物の産地として知られるカンボジアだが、今、その織物の原料となる生糸は、ほとんどが中国やタイからの輸入品だ。生糸は価格の変動が激しい。輸入生糸に頼ることで、カンボジアの絹織物産業も安定しにくいのが現状だ。

 それならば、内戦で途絶えたカンボジア産生糸の生産を復活させ、養蚕で農家の収入増を図り、絹織物業界の安定を図ろう――。そう考えたのが、カンボジアの国家最高経済諮問委員会(SNEC)のメイ・カリヤン特別顧問だった。

 カンボジアには、1940年代まで全国に約6000ヘクタールの桑畑があり、毎年20トンの生糸を生産していた。だが、1970年代からの内戦と混乱で畑はほぼ完全に失われ、養蚕技術も途絶えてしまった。

 今、全国に桑畑は約40ヘクタール。年間の生糸生産は4トン以下で、毎年400トン余りを外国から輸入しているという。

「養蚕は、1ヘクタールの桑畑があれば2000〜3000ドルの収入を生み出す」と、カリヤンさんは言う。コメの場合は1ヘクタール=500ドル程度。養蚕が軌道に乗れば、国内絹糸産業の安定だけでなく、農家にとっても収入増となり、この国の貧困削減にもつながる、と考える。

 2010年、カリヤンさんは国に働きかけて国立養蚕研究所を設置。養蚕を普及させるための研究に着手した。

 カリヤンさんがこの事業に情熱を燃やすのには理由がある。

 カリヤンさんは1953年、カンボジアがフランスから独立した年、中部ポーサット州に生まれた。父親は小学校の校長で、地域の人たちから尊敬される人物だった。カリヤンさんは7人きょうだいの2番目の子供。首都から遠く離れた田舎町で、のびのびと育った。

 1969年、「アポロ11号」による人類初の月面着陸がカリヤン少年の世界観を変えた。米国政府によるクメール語のラジオ放送を聞きながら、カリヤンさんは「外の世界」に強いあこがれを持つようになる。少年にとって、「アポロ」は、進歩と発展の象徴だった。フランスから独立を勝ち取った今、「いつかカンボジアもアポロを飛ばせる国に」という夢に胸を熱くした。

 だが「アポロ」の翌年、カンボジアはロン・ノル将軍によるクーデターで内戦状態に陥る。それからポル・ポト時代を経て、紛争状態が20年以上も続くなど、当時はだれにも分からなかった。カリヤンさんも混乱が一日でも早く収まることを願いつつプノンペンに上京し、名門シソワット高校からプノンペン工科専門学校へと進み勉強をつづけた。

 しかし、状況はどんどん悪化した。米軍による爆撃も始まり、学生が警備に動員されるようになった。カリヤンさんは留学を決意。日本の国費留学生に応募して難関を突破。1974年、東京へ向けて旅立った。翌年、カンボジアはポル・ポト派が政権をとって「民主カンボジア」となり、カリヤンさんを日本へ送り出した国は消滅した。

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