丸紅の穀物取扱量は、年々急増している!

写真拡大

商社では、かつて「3M」(三菱・三井・丸紅)と言われた時代があった。今、丸紅は、史上最高の連結純利益を見込み、大型買収を決定するなど、絶好調である。予想される社長レース、“野武士”集団の最前線に迫った。

■メード・イン・グレンコアの人間を送る

08年、丸紅の穀物部は転機を迎える。

用船ビジネスにも慣れてきた頃、次の課題は「物量」に関するものに変わり、“世界の胃袋”である中国市場に進出するか否かの判断を迫られていた。

世界的にも、アジア市場の伸びは、年々著しい。中国、韓国、台湾、インドネシア、ベトナム、ミャンマーなど、大豆だけでも、アジアにおける取引量は、1億2000万〜1億3000万トンが見込まれる。この取引量は、世界のそれの半分近くを占める莫大な量だ。

日本のアドバンテージは、大豆の産地である米国やブラジルから大豆を船で出荷した際に、日本に船を向ければ、自然に同じ方向に中国をはじめとするアジアの巨大市場があることだ。

タイムチャーターが最大限の力を発揮するのは、ある程度一定規模の物量を持ち、複数の供給先を持つときだ。それで初めて、様々な組み合わせが可能となり、効率のよい穀物の供給が実現できる。

思えば、02年のタイムチャーターへの進出から、中国への進出、物量の拡大と、穀物部の「創造的な破壊」は、ガビロン買収に通じる助走だった。むろん、社内に“リスク”に対する反対の声もあったが、岡田大介だけでなく、当時の経営陣はリスクを取った。

岡田は、丸紅穀物部隊を次のステージに導くために、“穀物マフィア”を1人外部から招き入れていた。この岡田が、“三顧の礼”をもって迎え入れた人物は、当時、ライバル会社の東食にいた若林哲。かつて穀物の世界を動かす25人にも選ばれた世界的なトレーダーだ。丸紅に転身して5年、若林は岡田の後を受け、執行役員食糧部門長の要職に就いている。

02年頃、進むべき道を模索していた岡田に、若林はライバルとして忠告した。

「日本だけに(穀物を)集中投資する時代ではないし、今のやり方はいずれ陳腐化する。タイムチャーターをやるべきだ」

丸紅に転職後、丸紅のビジネスモデルは想像以上に変わったと、若林は言う。

若林は、世界最大の商品取引会社、「グレンコア」の幹部との会食の際に交わされた会話が、忘れられない。

「グレンコアでは、買収後の企業のマネジメントはどのように行っているのか」

と聞いた若林に対して、グレンコアの幹部は、間髪いれずこう答えたという。

「メード・イン・グレンコアの人間を送る」

ガビロン買収を決めたが、丸紅の穀物部隊にグレンコアと同じようなことができるかと問われれば、若林は、今の丸紅にはそこまでの人材の厚みはないと言う。人材に厚みをどうつけるかが、若林に課せられたミッションの1つでもある。

95年入社の穀物部穀物グローバル課長、福田幸司は、天の配剤を感じるときがある。入社1年目、忙しく働く同期の連中とは違って、残業もなく事業会社を管理する部署の仕事に、気持ちが萎えて、退職を考えたこともあった。「ただ働きたい」。福田の将来を慮った上司が、福田に提示したのが、当時の飼料部(現穀物部)だった。未知の部署だったが、ただ“仕事をする”ことが面白く、忙しさが心地よかった。それ以来、福田は穀物の世界に身を置く。

東食時代の若林が、岡田にタイムチャーターを提案したとき、福田は同じ場所にいた。03年の正月、磯子カントリークラブでクラブを握っていたのが岡田、若林、福田の3人だった。「もう(タイムチャーターを)やっちゃえよ、福田」。

若林の声が、今も福田の耳に残る。そして今、福田が率いる穀物グローバル課は、30人ほどの課員が24時間態勢で世界を巡る穀物の動向に目を光らせている。

福田は、課員全員に対して1カ月に1回、その月に学んだこと、失敗したことなど、気づいた点を必ずノートに書かせている。課員同士がこの「虎の巻」を使うことで、過去の失敗から得られた数々の教訓を知ることができる。その結果、同じ失敗をする例は、皆無になった。

福田が飼料課(現穀物課)に配属されてから17年。歩んだ道は穀物メジャーにまで通じた。穀物メジャーを前にあらためてその意義を実感する福田だが、4年間、穀物メジャーの1つ、ADMで働いた経験がある。ADMは、世界75カ国に展開し、社員数は3万人以上いる。今後は、ADMのような穀物メジャーで一生涯、集荷、トレード、倉庫管理などの経験を積んだプロたちとの戦いになる。

福田の下で、世界を駆ける船舶管理を任されている05年入社の尾崎秀夫は、24時間、常に電話が通じるところにいる。尾崎が受け持つのは、6万トン級の船舶で、商品代金を含めると約15億円から25億円、それを東京で10隻管理している。年間5000億円のオペレーションのカギを握る尾崎は、こう言う。

「午前様の電話はトラブルばかりです」

忘れもしないのは08年の大晦日に、実家で紅白歌合戦を観ているときにかかってきた電話だ。当時、船の運賃は高騰し、1日あたり1000万円を超えていた。電話口で、米国西海岸の船主が言う。

「1カ月間停泊地で待ち、やっと港に向けて集荷をしようと思ったら、エンジンが壊れて行けない。どうすればいいか?」

顔面蒼白になった尾崎。頭の中で瞬時に1カ月間待たされた場合の用船料を計算したが、もう手立てはない。尾崎は、船主に「残念ですが(入港を待つ)列の一番後ろに戻るしかないですね」と、答えた。この失敗は「虎の巻」に書き込まれた。“長期停泊していた船は、動かす数日前からエンジンの調子を確認すること”。この1行が、今後、後輩のビジネスロスを救うことになるのだろう。

■一流であるからこそ、客に損をさせられない

電力・インフラ部門トップで専務執行役員を務める山添茂は次期社長レースの大本命と言われている。

よく酒を飲み、よく笑う山添は、若い社員の話にも一生懸命耳を傾ける。そして、自らの体験、経験を噛んで含めたわかりやすい言葉で、彼らに伝えていく。こうした機会を、山添は大切にしている。そして海外に出たことのない社員を見つけると、翌日、直属の部門長に言うのだ。

「彼(彼女)に、できるだけ早く海外を経験させてやってくれ」と。

フィリピン。この国は、丸紅にとって“戦略国”で、商社マン山添が育てられた場所でもある。丸紅が、フィリピンに初めて事務所を設立したのは、1908年。日本では西園寺公望首班の内閣が倒れ、桂太郎が第2次内閣を組閣していた頃で、明治新政府を打ち立てた元老たちが、政治を牛耳っていた時代だ。そして丸紅の電力部隊が、フィリピンに初めて発電所を設置したのは、1950年代だ。

その後、丸紅はフィリピンの発電所の改修工事を引き受けたが、84年の9月に当時20代後半だった山添は、その一員としてフィリピンの地を踏んでいる。80年代は、同国の独裁の象徴、フェルディナンド・マルコス政権に陰りが見え始めた頃だ。83年には、野党で大統領候補だったベニグノ・アキノがマニラ空港で衆人環視の中で暗殺されて、世界を震撼させた。山添が赴任した翌年2月には、マルコスはハワイへの亡命を余儀なくされ、国内は内乱状態となった。

丸紅が事務所を構える一角では、銃撃戦が繰り広げられて、ときには事務所内にまで銃弾が飛んでくることもあった。

政権交代後、一気に丸紅は苦境に立たされてしまう。当時、マルコス政権と近かったと噂された丸紅は、“マルベニコス”と揶揄され、マルコス政権時代に交わされた契約はすべて白紙撤回になってしまった。新政権に、山添が何度も会社としての潔白さを訴えても、埒があかない。山添には砂を噛むような日々だった。

その苦境を救ったのは、長年、丸紅が脈々と築いてきた人脈だった。丸紅と付き合いのあったフィリピン電力庁のOBが、突然救いの手を差し伸べてくれたのだ。彼は、当時、日本に留学していた息子を丸紅が独身寮に入れ、世話してくれたことに深く感謝していた。

このOBの尽力もあって、丸紅にもようやく道が開けてきた。山添は、「毎月のように契約が取れてしまった」と言う。前述した発電所の改修工事も当初は、2基だけの予定が、最終的には8基すべてを受注するまでになった。結局、こうしたフィリピンでの電力事業が、山添が離任した後ではあったが、丸紅初のIPP(独立系電力事業)へとつながっていく。

フィリピンから始めたIPPは、10年間で5倍に急成長し、大型発電所の9基以上に相当する巨大事業となっている。

電力・インフラ部門における今期の利益は約250億円程度になるだろうと山添は分析する。山添が同部門長になったときは利益が50億程度だったというから、利益を5倍に引き上げたことになる。

フィリピンへの投資から、50年以上にわたって経験を蓄積してきた丸紅の電力事業。かつては、EPC(設計から調達、建設まで)を得意とし、他社と比べて出遅れ感のあったIPPだが、今や他商社を圧倒し、確固たる地位を確立している。IPPが飛躍できた理由を山添が語る。

「97年、米サイスエナジーへの出資が、丸紅の電力事業を大きく変えました」

当時の同社への出資額は3億ドルで、300億円超の出資は、当時の丸紅にとっては、社の命運を左右する投資だった。当時、同社への出資にニューヨーク駐在課員として関わったのが舘上博(海外電力プロジェクト第3部部長代理)だ。

サイスエナジーへの出資を機に、丸紅の電力部門の部員たちが、同社のノウハウを吸収していった。IPPビジネスは、エンジニア、出資者、法律家といった、関係する異能な人材を1つに収斂させ、全体としてまとめあげる点が、重要である。丸紅の電力が、高い評価を得ている理由を、「一流であるからこそ、客に損をさせられないという意思が、部全体で共有されているから」と舘上は分析する。

■このままだと会社を潰すよ。説明してよ

現在、海外電力プロジェクト第2部課長としてASEANをはじめとするアジア諸国を担当する小林亮太も、山添同様に、フィリピンで商社マンとしての姿勢を身につけた。小林が当時、担当したのは水力発電。小林は、マニラから車で5時間、そこから現地人スタッフと歩くこと2時間、やっとの思いで、現地に到着して説明会に臨んだ。そこで自作した“紙芝居”で、ダムの安全性を力説した。

昼食には、洗面器のような薄汚れた容器に山盛りのご飯が盛られた。住民の同意なしにダムはできない。自分が嫌な顔をすれば、会社に迷惑がかかる。小林は顔が引きつるのをこらえ、ニッコリ笑って洗面器のご飯をほおばった。こんな話を聞く度に、山添は嬉しそうな顔をする。

03年、丸紅は、先ほどのサイスエナジーの株式を、サイスエナジー傘下のサイスアジアに振り分け、結果的に同社を100%買収した。サイスアジアの下には、中国、韓国、オーストラリアの資産が連なる重要な案件だが、同買収を香港駐在員として担当したのも小林だ。

96年に入社し、丸紅の電力事業の変化を身をもって感じてきた小林。常に電力事業の最前線で陣頭指揮を執り続けてきた山添。山添は、決して声を荒らげ、檄を飛ばして部下を引っ張るタイプではない。小林にとって、山添はどんなボールでも受け止めてくれる懐の深い上司だ。

「とにかく話を聞いてくれる。若手の発言を止めたり、遮ったりすることは一切なかったですね。本当に自由に話させて、そこから現実的な仕事になっていく」

丸紅の電力事業が、EPCからIPPへと劇的に変わることができたのも、山添の存在が大きいと、小林は言う。

山添には、近年、肝を冷やした経験がある。シンガポール最大の電力会社である「セノコ・パワー・リミテッド」の買収を完了し、現地スタッフ関係者一同を招いてのパーテイーも和やかに終了したときのことだ。08年9月15日、すべてが終了し、山添はシンガポールから東京へ飛び立つが、リーマンショックを機中で知ることになる。

東京で山添を待っていたのは、社長からの「このままだと会社を潰すよ。経営会議で説明してよ」という言葉だった。

石橋を何度叩いても、絶対に安全というビジネスはないと、骨身にしみてわかっている。それゆえ、山添は考えうる限りの最善の努力をして、「骨身を惜しむな」と口を酸っぱくして言う。丸紅には、毎年120人から130人の新入社員が入社するというが、ここ数年、新入社員の半数近くが電力を希望することに、山添は、嬉しさを感じている。また、1人でも多くの若手を現場に送り出せると。

食糧の岡田と電力の山添。次の社長レースを制するのはどちらか。それとも別の伏兵が現れるのか。だが、社長が誰になったとしても、丸紅の「現場がすべて」というDNAは、継承され続けるだろう。なぜなら、そのDNAの存在こそが、丸紅たるゆえんなのだから。

(文中敬称略)

(ノンフィクションライター 児玉 博=文 宇佐美雅浩=撮影)