clip_image004

写真拡大

湯島聖堂 大成殿(孔子廟) 御茶ノ水といえば、明治大学や日本大学がキャンパスを構える、日本でも有数の文京地区である。時代を遡れば、江戸時代には当地に徳川綱吉が湯島聖堂を開いた。JR御茶ノ水駅からもその青銅色の屋根を臨むことができる。寛政年間に及んで、老中松平定信が朱子学の振興を図り、施設の拡充をはかるとともに幕府の正式な学校とした。やがて昌平坂学問所(昌平黌)と呼ばれるようになり、諸藩の俊才が集まる最高学府となった。幕末に活躍した人材としては、幕臣岩瀬忠震や清河八郎さらには高杉晋作もここに学んだ。

神田明神神田明神
明治天皇御臨幸記念碑
東京医科歯科大学
近代教育発祥の地


維新後、明治政府は昌平黌を接収して昌平学校と改め、明治二年(1869)には開成所、医学所などと合わせて大学校とした。明治十年(1877)には東京開成学校と医学校が合併して東京大学へと発展することとなった。この地は文部省博物局の陳列場(東京国立博物館の前身)や書籍館が造られ、師範学校(筑波大学の前身)、東京女子師範学校(御茶ノ水女子大学の前身)も創設されることになり、日本近代教育発祥の地となった。東京医科歯科大学の前には、「近代教育発祥の地」と記した説明板が建てられている。

やはり御茶ノ水駅の北側に鮮やかな朱色の門を持つ神田明神がある。本殿前の「明治天皇御臨幸記念碑」は、明治七年(1874)の明治天皇参拝を記念したものである。詳細は、神田明神のHP(http://www.kandamyoujin.or.jp/top.html)を参照いただきたい。

YMCA会館
小栗上野介ここに生まれる
明治大学
「権利自治・獨立自治」碑
ニコライ堂


 さて、今度は御茶ノ水駅を南側に出て数分歩くと、YWCA会館のビルがある。この地は小栗上野介忠順が生まれ育ち、終生の住居とした跡地にあたる。ビルの南側に千代田区の建てた「小栗上野介ここに生まれる」と記された説明板が建てられている。小栗上野介は万延元年(1860)の遣米使節に監察として随行したが、そのとき小栗に課された要務の一つは、日米両国の貨幣交換比率をアメリカと交渉することにあった。ハリスと締結した日米和親条約に基づく交換比率では日本から一方的に金貨が流出することになったため、アメリカで日本貨幣の分析を行うことになった。フィラデルフィアの造幣局で貨幣分析に立会い、日米両国の貨幣交換比率を確定させるに至った。小栗の真摯な態度はアメリカ人の賞賛を集め、当時のマスコミは挙って小栗を絶賛した。

 道を渡って明治大学御茶ノ水キャンバスに向かう。矢代操、岸本辰雄、宮城浩蔵という三人の創業者のリリーフと、彼らが普及を志した「権利自治・独立自治」の言葉を刻んだ記念碑が建てられている。矢代ら三名は、それぞれ藩を代表して貢進生として大学南校に学び、その後、そろってフランスに留学した。帰国後、明治法律学校を創立したのが、明治大学の前身である。

 御茶ノ水駅の近くに銅製のドーム状の屋根を持つニコライ堂がある。因みに御茶ノ水駅の東京寄りの橋は、湯島聖堂とニコライ堂を繋いでいるため、聖橋(ひじりはし)と呼ばれる。ニコライ堂は、正式には東京復活大聖堂といい、明治二十四年(1891)に完成した。原設計はロシア人シチュールポフ、実施設計および工事監督はイギリス人J.コンドルが担当した。ニコライ堂の建設には、一人の日本人の協力があった。土佐人沢辺琢磨である。
 沢辺琢磨は、維新前は山本姓を名乗り、坂本龍馬とは従兄弟関係にある。ある日、拾った金時計を売って金にしたことが発覚し、江戸を追われた。琢磨は箱館まで逃げて、そこでロシア正教会のニコライ神父を知ることになり、やがて洗礼を受けてキリスト教徒となった。日本人初の司祭としても知られる。