少女だけが集められた、道化のいないサーカスを描いた『ブランコ乗りのサン=テグジュペリ』(角川書店)。好奇の目がよせられる見世物小屋で、ケガをした姉のかわりに空中ブランコに乗る少女が舞台に立つ。少女達は命をかけて、客を悦ばせ続ける。作者は『ミミズクと夜の王』の紅玉いづき。

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「わたくし達サーカス団は、あなた方に完璧を求めません」
「不完全でありなさい」
「未熟でありなさい」
「不自由でありなさい」
紅玉いづきの小説『ブランコ乗りのサン=テグジュペリ』の一節です。

原題は『少女サーカス』。少女しかいないサーカス団の物語です。
そのサーカスの演目を持つ花型役者には、アンデルセン、カフカ、チャペックなど、男性作家の名前が冠名として与えられます。
空中ブランコ乗りの少女の名前は、サン=テグジュペリ。一際目立つ役者です。
これらの名を襲名できるのは、極めて厳しい訓練を乗り越えた、才能があるエリート中のエリートだけ。
場所はカジノ特区。20世紀末に都市を襲った震災復興のため作られた場所の中の、サーカス。
少女たちはここの花型になることだけを考え日夜過ごしています。

「サーカス」のことを作中では「見世物」と表現しています。
こんなモノローグがあります。
「見てはいけないものを見るような、背徳的な喜びだった。大人の飲酒や性行為をのぞき見るような。もしくは、凄惨な死体に釘付けになるような」
このサーカスにはハッピーになる道化はいません。
あるのは、少女たちが命をかけて芸を披露する、好奇の目が集まる見世物なのです。

……さて、少女って言われて、ぼくは小中高生くらいを想像したわけですよ。
ところが本文を読んでびっくり。出てくるヒロインは19歳です。
19歳かー、少女……女性? まあ、あんまり少女とは言わないでしょう。
しかしこの作品では、19歳の彼女らを「少女」と言って扱っています。
ここが作者の持つ「少女観」になっています。

物語はブランコ乗りのサン=テグジュペリ、猛獣使いのカフカ、歌姫のアンデルセンの3人を軸に描かれます。
正確には4人です。というのもサン=テグジュペリは双子の代理だからです。
天才的才能とカリスマを持ったブランコ乗り、涙海。賞賛されるために生まれた命とも言われる彼女は、ブランコから落下して脚が動かなくなり、起き上がることができなくなります。
その穴を埋めるべく、内緒で入れ替わって妹の愛涙がブランコ乗りをしている。
ベッドにいるブランコ乗りの苦しみ。舞台という魔物の中で戦うニセのサン=テグジュペリの苦悩。

逃げればいいんですよ。
サン=テグジュペリの涙海はケガをしました。他の人がブランコ乗りになればいい。
けれども絶対にそうしません。
カフカは猛獣にいつ殺されるかわからない中でも舞台を降りない。
アンデルセンは身体を開き命を捨てる覚悟でサーカスを守ろうとします。
一歩間違えばケガをするんだもの。気を抜けば死ぬんだもの。
それでもなおこのサーカスを、なぜ選ぶのか。

「美しくありなさい。ほんのひとときで構わないのです。そのひとときだけが、あなたがたを、永遠にするのですから」
最初に引用したセリフを語ったサーカス団の団長シェイクスピアはこう語ります。
この物語が持っている熱量はここにあります。
スポットライト浴び、賞賛や絶叫を聞き、拍手を受ける。
その一瞬のために、自分のあらゆるものを投げ捨てて、少女でいられる間だけサーカスの舞台に上がるのです。

成人女性になる前であり、少女と呼ばれる最後の瞬間の19歳。描かれる彼女たちの挙動には、大人の女性の持つ賢さとリアリズムがあります。
と同時に、この見世物小屋でスポットライトを浴びて輝くために、すべてを捨ててもいい、という少女の激しい情熱もあります。
「完全」を見せるのではない。「不完全」を見せる。だから「少女」でなければいけない。

ラスト、その究極形としての少女像が描かれます。
複数のキャラを主役に据えることで、様々な角度から、作者の考える「少女」を描いた、サーカス群像劇です。
「不自由なことは、美しいことよ」


紅玉いづき 『ブランコ乗りのサン=テグジュペリ』

(たまごまご)