今日は故・青函連絡船の就航日! 北海道-本州の連絡にまつわる話




3月7日は、北海道と本州を結ぶ「青函連絡船」が初めて就航した日です。青函連絡船はかつて青森-函館を結ぶ大事な交通手段でした。北海道-本州を結ぶ「交通路」について紹介します。





■青函連絡船とは!?



「青函連絡船」とは、かつて北海道と本州との大事な連絡手段として運航されていた客船のことです。津軽海峡を渡り、青森県の青森駅と北海道の函館駅の間を結んでいました。



その歴史は古く、なんと1908年(明治41年)3月7日に運航を開始しています。このとき就航したのが、日本初の蒸気タービン船『比羅夫丸』(ひらふまる)でした。青森-函館間を4時間で結んだそうです(ただし、はしけを使って乗降していたので実際には6時間の行程)。



明治に運航開始された青函連絡船は、1988年(昭和63年)3月13日まで営業されました(暫定運航は同年9月19日まで)。人を運ぶだけでなく、鉄道車両、乗用車まで運んだのです。青函連絡船は、最盛期には年間約500万人(1973年に498万5,695人を記録)もの旅客を運ぶ大動脈でした。



1988年の青函トンネルの開通に伴い、青函連絡船は80年の長い歴史に幕を閉じました。北国のフェリー、舞う雪という、かつての旅情たっぷりの「青函連絡船の情景」は、石川さゆりさんの歌う『津軽海峡・冬景色』の中に今も生きています。



■「青函トンネル」の構想は戦前に!



船で人を運ぶのではなく、何とか本州と北海道を海底トンネルで結べないかと作られたのが『青函トンネル』です。全長53.85kmで青森県の東津軽郡今別町浜名と北海道の上磯郡知内町湯の里を結んでいます。



この本州と北海道をトンネルで結ぶという構想は、実は第二次世界大戦前にすでにあったそうです。桑原弥寿雄(くわはらやすお)という人が提唱しました。この人は、くしくも、青函連絡船が就航した1908年(明治41年)の生まれです。



戦後、この大きな事業に日本を踏み切らせたのは、津軽海峡への機雷の流入(1950年の朝鮮戦争の影響)や、台風による青函連絡船「洞爺丸」の転覆事故などでした。



特に1954年(昭和29年)に起こった洞爺丸の事故は、死者行方不明者が1,000人を超える、日本海難史上最悪の出来事だったのです。



天候などに左右されずに、安全に本州と北海道をつなぎたいという「願い」が、トンネル掘削に向かわせたのです。





■世紀の難工事「青函トンネル」



1964年(昭和39年)5月8日、北海道側吉岡で工事が開始されます。これは調査抗の掘削で、ここから世紀のトンネル掘りが始まります。1966年(昭和41年)3月21日には本州側竜飛でも工事が始まりました。



長大な海底トンネルを掘るということで大変な難工事でした。常に出水に悩まされながら一進一退を繰り返し、それでも前進を続け、ついに1983年(昭和58年)1月27日には先進導抗が開通! さらに1985年(昭和60年)3月10日にはついに本坑を全貫通することに成功します。



1988年(昭和63年)3月13日にはやっとトンネルの営業が開始されました。北海道側で着工してから実に24年間の難工事だったのです。ここで得られたトンネル掘削技術は日本の大事なノウハウになりました。



■北海道の空の玄関口「新千歳空港」



北海道の「新千歳空港」といえば、今や国内第3位の年間利用者数を誇る大空港です。押しも押されもせぬ、北海道の空の玄関口ですね。この新千歳空港の始まりは1926年(大正15年)にまでさかのぼるのをご存じでしょうか?



千歳村(現在の千歳市)の村民の皆さんが、飛行機の着陸場を整備したのがそもそもの始まりなのです。ここに同年10月22日、小樽新聞社の社員だった、酒井憲次郎さんが同新聞社保有の複葉機『北海一号』で着陸。これが千歳空港の幕開けとされています。



この着陸場は1939年(昭和14年)に海軍の飛行場に。第二次大戦後はすぐに連合軍に接収されてしまいました。しかし、1951年(昭和26年)には民間航空の事業が再開され、日本航空が千歳-東京間に就航しています。



日本にやっと返還されたのは1959年(昭和34年)のことで、このころはまだ「千歳空港」でした。千歳空港の横に、新たな滑走路等の施設を作り、1988年(昭和63年)に開港したのが「新千歳空港」です。



昔の千歳空港は「千歳飛行場」となって、航空自衛隊の「千歳基地」となっています。ややこしいですね。





(高橋モータース@dcp)