『キャパの十字架』沢木耕太郎・著/文芸春秋
1920代後半から1930年代はフランスの「VU」やアメリカの「Life」など、グラフ紙と呼ばれる写真週刊誌の創刊が相次いだ時代であり、それらは最新鋭のマスメディアであった。ロバート・キャパによる写真「崩れ落ちる兵士」の秘められた謎にノンフィクション作家沢木耕太郎が挑む本書。1月26日から3月24日まで横浜美術館で「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」と題された企画展が開催されており「崩れ落ちる兵士」も展示されているので、是非そちらもあわせてご覧頂きたい。

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たった一枚の写真から、物語が始まることがある。
遠く山脈を見渡す斜面で、ひとりの兵士が銃弾に倒れる刹那を撮った写真。
「崩れ落ちる兵士」と呼ばれるロバート・キャパ(本名、エンドレ・フリードマン)による有名な一枚であり、フォト・ジャーナリズムの最高傑作のひとつとされている。

しかし、実はこの写真はキャパの作品のなかでも「疑惑の一枚」として議論されてきたいわくつきの写真なのである。
撃たれた兵士の斜め前から撮ったということはカメラマンの背中側から銃弾が飛んできているはずであり、そのような状況で死の「完璧な瞬間」を撮ることができるものだろうか。そもそも本当の戦場で撮られたものなのか。フェイクではないのか。

ノンフィクション作家沢木耕太郎は、長年この写真に違和感を抱いてきた者のひとりだ。2月17日に発売された『キャパの十字架』で、沢木は「崩れ落ちる兵士」の謎に迫っていく。

そもそも「キャパ」という写真家はふたりいた。ひとりはフリードマン。そしてもうひとりは彼が生涯愛した女性、ゲルタ・ポホイルである。
ユダヤ系ハンガリー人の若いカメラマンはまだ無名で収入も少なかった。
ベルリンで生活していた彼はヒトラーの台頭を期にパリへ向かい、3歳年上のゲルタと知り合う。ふたりは次第に惹かれあい、ゲルタはフリードマンの助手をしながら撮影技術を学んでいく。

ふたりは自らを売り込むために架空の存在を創りだした。アメリカ人写真家「ロバート・キャパ」である。
この目論みは大成功する。「キャパ」の正体がフリードマンであることが露呈した後もロバート・キャパを名乗り続けることになる。時を同じくしてゲルタもゲルダ・タローという作家名を使い始めた。

1936年、7月。スペイン内戦が始まる。キャパとタローは被写体を求めて戦場へと赴いた。「崩れ落ちる兵士」が撮影されたのは1936年の9月。内戦初期である。
キャパはこの写真について公式に語ることはほとんどなかったという。また、自身の手で注釈や解説文をつけることもなかった。
しかし事実がどうであれ「崩れ落ちる兵士」が彼を「偉大なキャパ」に変えてしまった。「秘密」を分かち合える唯一の人であったタローは、その約一年後、戦車に轢かれて死んでしまう。
キャパは「十字架」を背負って生きていくこととなった。

沢木耕太郎は20年以上もこの物語を追っていた。

沢木は、キャパとタローが使用したカメラの構造や、写真のサイズを考察し、銃弾の威力にも科学的な検証を加え、さらには大岡昇平の兵役体験をもヒントにする。
撮影現場を探るため何度もスペインへ向い、その調査範囲はフランスやアメリカまで及んだ。
今年で66歳になる沢木耕太郎のこの行動力。なぜこれほどまでにロバート・キャパにこだわるのか。

1947年生まれの沢木耕太郎は、23歳でルポライターとしてデビューした。
インドからイギリスまでの乗り合いバスによる旅(当時26歳)を記したノンフィクション小説『深夜特急』はベストセラーとなり、ドラマ化もされた。

1978年、30歳の沢木は『テロルの決算』を発表する。
日本社会党委員長だった浅沼稲次郎と、演説中の彼を脇差で刺殺した右翼少年山口二矢を描いたノンフィクションである。山口二矢は1960年の犯行当時、わずか17歳。現行犯逮捕後、その年に鑑別所のなかで自殺を遂げた。
沢木はあとがきで、この本を書いた最大の理由を『私自身の、夭折者への「執念」に近いまでの関心にあったような気がする』と述べている。

『私は、少年時代から夭折した者に惹かれつづけていた。しかし、私が何人かの夭折者に心を動かされていたのは、必ずしも彼らが「若くして死んだ」からではなく、彼らが「完璧な瞬間」を味わったことがあるからだったのではないか。私は幼い頃から「完璧な瞬間」という幻を追いかけていたのであり、その象徴が「夭折」ということだったのではないか。なぜなら、「完璧な瞬間」は、間近の死によってさらに完璧なものになるからだ。私にとって重要だったのは、「若くして死ぬ」ということではなく、「完璧な瞬間」を味わうということだった……。』

1980年代後半に、キャパの伝記『ロバート・キャパ』と写真集『フォトグラフス』を沢木は翻訳している。その巻末解説のなかで、『ちょっとピンぼけ』を少年時代に読んでいたら、あるいは報道写真家を志していたかもしれないと語っている。
沢木はキャパを「本質的に写真家ではなくジャーナリストであったのだ」と評する。『「いま」という時代に深く爪痕を残すため、永遠を望まない人種』であった、と。

『私がこの写真集を座右の書としたのは、そこに「伝える者」としての覚悟を持っていないような者、たとえば私のような者をむち打つ、深いところからの力が秘められているように思えたからなのだ。』

また、紀行文集 『一号線を北上せよ』のなかに「キャパのパリ、あるいは長い一日」という1989年に発表された短編が収録されている。若きキャパとタローが暮したパリは『深夜特急』の終点ロンドンに向かう直前の沢木が日々を過ごした「青春の地」でもあった。沢木はキャパが定宿とした安ホテルが、自分のいたアパルトマンのすぐ近くにあったことに気づく。ありし日の沢木とキャパが、ここで交錯する。
このパリ訪問のとき、沢木は40歳前後であった。
キャパはベトナムで地雷を踏んで死んだ。享年40歳だった。

タローは26歳で死んだ。そして、キャパの心の奥底にずっと留まりつづける。
「崩れ落ちる兵士」と同等かそれ以上の写真を撮らなければならない……。
「偉大なキャパ」の呪縛から解き放たれるために、彼はなんどとなく戦場に身を投じるほかなかったのである。

沢木はこう感じているのではないか。
キャパもまた、「いま」のなかに「完璧な瞬間」を求めていたのだ、と。

『キャパの十字架』で「崩れ落ちる兵士」の謎に答えをだした沢木の目的は、キャパの「虚像」を剥ぐことではなかった。沢木は自分自身の姿をキャパに重ねていた。キャパと自分が「同類」であるのは、「視るだけの者」としての哀しみを知っているからだ。沢木はそう述懐している。
「視るだけの者」は孤独であり、「伝える者」は物語を生み出す。だれも予期せぬかたちで、彼らに「十字架」を背負わせる。

たった一枚の写真から、物語が始まることがあるように。(HK 吉岡命・遠藤譲)