取材・文: 編集部

 

“In the Louvre they are art. Make Vogue a Louvre”
by Edward Steichen
(ルーブルで見るから芸術なのだ、『Vogue (ヴォーグ)』をルーブルにしよう)

 

これは、20世紀初頭の米国の写真界に大きな影響を与え、アート性を持つ斬新なファッション写真のスタイルを確立した偉大な写真家 Edward Steichen (エドワード・スタイケン) の言葉である。現在、没後40年を迎えた彼の世界巡回写真展『エドワード・スタイケン写真展 モダン・エイジの光と影 1923-1937』が、東京・世田谷美術館にて2013年4月7日まで開催されている。この写真展は、70年間におよぶ彼の写真家としてのキャリアの中で、1920-1930年代の15年間に焦点を当てた展覧会だ。当時、『Vogue (ヴォーグ)』や『Vanity Fair (ヴァニティ・フェア)』で主に活躍していた Steichen のファッション、ポートレイトなどが一同に展示されている。

Steichen はファッション写真を芸術の域へと引き上げた、ファッション写真を語る上で欠かすことのできない人物のひとり。本展は、彼のファッション写真を調査し、再評価するという意図で企画されている。そして Steichen が残した数多くの輝かしい功績の中で忘れてはいけない点がある。芸術的な写真家を志向する一方で、商業主義的な媒体にも背を向けることなく、写真を取りまく世界の環境整備の啓蒙活動に尽力したという点だ。Steichen と親交があった巨匠 Pablo Picasso (パブロ・ピカソ) は、「ヨーロッパのモダニズムの絵画がアメリカに定着し、そのことによってアメリカの芸術文化の活動全体を変容するにおよんだのは、Steichenを通しておこなわれたからだ」と語っている。また、Steichen は50歳のときに出版した自身の写真集で、以下の言葉を綴っている。

 

“There never has been a period when the best thing we had was not commercial art.”
by Edward Steichen
(いつの時代でも、いちばんいいものはすべて商業芸術だった。)

 

「(Steichen は) 写真の歴史において間違いなく最も多作で、最も多面的であり、最大の影響力をもって、最も多くの議論を引き起こした人物」と William A. Ewing  (ウィリアム・A. ユーイング) が言うように、Steichen が歩んできた人生は、つねに評価と批判が隣り合わせで語られてきた。ここで、Steichen の激動の人生の一部を、彼のうつくしく、力強い作品とともに振り返ってみた。


グレタ・ガルボ (1929年) | ©1929 Condé Nast Publications

Steichen は、1879年にルクセンブルク大公国で生まれ、幼少時に米国に移住。15歳で地元ミルウォーキーの石版印刷会社で広告用のイラストを描く職を得て、16歳のときにはじめてカメラを手にしている。芸術的な才能に恵まれ、すでに国内の写真サロンで頭角をあらわしていた彼に転機が訪れたのは1900年。その年、彼はパリに向かう途中、ニューヨークで “近代写真の父” と言われる米国写真界の重鎮 Alfred Stieglitz (アルフレッド・スティーグリッツ) と出会う。Stieglitz は彼の才能に惚れ込み、彼のポートフォリオから3点を選び、高額で購入したという。その後は、写真家集団「Photo Secession (フォト・セセッション)」に加わり、表紙デザインなどを担当。1902年には先鋭的な機関誌『カメラ・ワーク』の創刊にも参加し、1905年には画廊291の設立にも加わるなど、Stieglitz とともに米国の近代美術史と写真史において重要な役割を果たしている。また、同時期にパリにも拠点をおいていた Steichen は、“近代彫刻の父” François-Auguste-René Rodin (フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン) ら芸術家のポートレイトも撮影し、高い評価を得ている。そのころから、『偉大なる人間たち』というポートレイト・シリーズの発表を夢想していたが、その後40代でコンデ・ナスト社の雑誌『Vanity Fair』で主任写真家となり、その夢が実現することになるのは、20代の Steichen は知る由もない。

また、当時の Steichen は、“enfant terrible (米国写真の恐るべき子ども)”という異名をもっており、写真に芸術の地位を与えようとするピクトリアリズム (絵画主義) の潮流の中で、芸術的な作品を数多く生み出している。彼のピクトリアル(絵画調)写真の最高傑作と言われるのが、暗闇の池と周囲の林の合間から写る月を撮影した1904年の作品「The Pond-Moonlight」である。これは2006年の Sotheby’s New York (サザビーズ・ニューヨーク) のオークションで、約3億5千万円という1枚の写真作品としては当時、史上最高額で落札された。

 

2/3ページ: 『Vogue』『Vanity Fair』時代の Edward Steichen の写真

 


アール・デコふうの大判スカーフをまとうタマリス (1925年) | ©1925 Condé Nast Publications


1914年、第一次世界大戦が勃発。パリ郊外の農村ヴランジに暮らして花の品種改良に熱中していた Steichen は、ドイツ軍侵攻の直前、命からがら帰米。戦争に対する姿勢や、画廊291の運営方針をめぐって、Stieglitz とも決裂している。そして Steichen は米国陸軍に志願し、航空写真を開拓することになる。第一次世界大戦中に航空写真に出会った経験は、彼自身にとって、写真に対するアプローチを見直すキッカケとなったとされている。これが、結果的に彼がシャープなストレートフォトに傾倒し、モダニズム写真を追求していく基礎になったと言われている。

第一次世界大戦終結後は、パリ近郊の自宅にこもり、食器や植物を題材に幾何学的な構成の写真を撮り続けた。その後、帰米して商業写真家になることを決意。そして偶然手に取った『Vanity Fair』に、Steichen に関する誤報が掲載されていることをキッカケに、彼は同誌の設立者兼編集長の Frank Crowninshield (フランク・クラウニンシールド) に手紙を送った。手紙を受け取った Frank はすぐに Steich を呼び出し、高給を約束して『Vogue』『Vanity Fair』の主任写真家に彼を抜擢している。そしてここから、Steichen のキャリアの中でも、最も注目すべき15年間がはじまるのだった。


シェリュイのドレスを着たマリオン・モアハウス、コンデ・ナストのアパートントにて (1927年) | ©1927 Condé Nast Publications

Steichen はJ. W.トンプソン広告代理店とも契約し、広告写真でも第一人者として活躍。当時最もギャラの高い写真家と言われていたそうだ。そして1920年代に彼が撮ったファッション写真で最も知られた1枚が、ページ上段に掲載した「アール・デコふうの大判スカーフをまとうタマリス」 (1925年) である。モダニスティックな芸術がモードにも登場したことを象徴する写真だ。

左に掲載しているのは、Steichen のミューズとしても知られる Marion Morehouse (マリオン・モアハウス) を撮った作品「Marion Morehouse in a dress by Chéruit, in Condé Nast's apartment (シェリュイのドレスを着たマリオン・モアハウス、コンデ・ナストのアパートメントにて) 」(1927年) 。これは当時流行のドレスを着た女性を撮影しているのだが、それまでの伝統から解放され、自由に生きる女性の最も輝いている瞬間をとらえ、好景気を背景とした時代の気分と雰囲気が見事に反映されている作品だ。これはファッション写真の歴史の中でも重要な1枚とされている。ちなみにこの作品の市場価値は、1960年代にプリントされたモダンプリントでさえ、100万〜150万円すると言われている。

『Vanity Fair』誌はすぐれたポートレイトを掲載してきたことで知られているが、若いころからポートレイトの名手だった Steichen にとって、同誌は恰好の舞台となった。女優 Marlene Dietrich (マレーネ・ディートリッヒ) や Greta Garbo (グレタ・ガルボ)、作曲家 George Gershwin (ジョージ・ガーシュイン)、“SF小説の父”Herbert George Wells (ハーバート・ジョージ・ウェルズ) など、彼が撮り下ろした著名人は挙げれば切りがない。1ページ目の上段に掲載されているのは、『Vanity Fair』のために撮影した女優 Gloria Swanson (グロリア・スワンソン) のポートレイト。同じく1ページ目の下段に掲載されているのは Greta Garbo (グレタ・ガルボ) のポートレイト。この写真は5分で撮影したと Steichen は言っている。3ページ目の上段に掲載した、ピアノの前の男性は作曲家の George Gershwin (ジョージ・ガーシュイン)。同じく3ページ目の下段に掲載されているのは女優 Mary Heberden (メアリー・ヘバーデン)。このように、『Vanity Fair』を通して、Steichen は時代を象徴する著名人のポートレイトを数多く撮影し、セレブたちの強力なパブリック・イメージの確立に貢献したのである。


シュザンヌ・タルボットの黒いチュールのヘッド・ドレスと、黒いキツネの襟つきブロケード・コートをまとうモデル (1925年) | ©1925 Condé Nast Publications


 

3/3ページ: MoMA (ニューヨーク近代美術館) キュレーター時代のEdward Steichen

 


作曲家ジョージ・ガーシュイン (1931年) | ©1931 Condé Nast Publications


1929年に大恐慌が発生し、Steichen は不況によりJ.W.トンプソン社から契約を解除される。しかし、そのころから Steichen は活動の場所を商業誌や広告から徐々にパブリックな場所へと移すようになっていた。1932年、彼は MoMA (ニューヨーク近代美術館) の「アメリカ人画家・写真家による壁画」展に、George Washington Bridge (ジョージ・ワシントン・ブリッジ) を題材とした巨大写真壁画を出品し、大衆に訴える写真のさらなる可能性を探求した。1937年、58歳でコンデ・ナスト社を去り、翌年ニューヨークのスタジオをたたみ、商業写真からは引退することを宣言した。

1939年、第二次世界大戦が勃発。1942年、Steichen はすでに63歳という高齢にも関わらず海軍に入隊し、米国海軍写真班で指導に当たる一方、ドキュメンタリー映画を制作している。この戦争ドキュメンタリー『The Fighting Lady (ファイティング・レディー)』は1945年度アカデミー賞のベスト・ドキュメンタリー賞を受賞している。この第二次世界大戦中、彼は MoMA にて 戦意高揚を促す「勝利への道」展を企画し、同展は大きな反響を呼んだ。


女優メアリー・ヘバーデン (1935年) | ©1935 Condé Nast Publications

1947年68歳で、MoMAの写真部長に就任。MoMA のキュレーター時代の仕事として代表的なものを挙げるとするなら、やはり1955年に開催した展覧会「The Family of Man (ザ・ファミリー・オブ・マン)」展だろう。この写真展は、200万枚以上の写真のなかから Steichen 自身がセレクトした503点の写真で構成され、68カ国273人の写真家の作品を集め、編集したもの。この写真展は大成功を収め、38カ国で展覧会が開催され、世界で900万人が観覧したと言われている。その後彼は1962年82歳で MoMA を退職し、1973年93歳のときに、コネチカットの自宅にて永眠することとなった。

このように、Steichen は約70年間にわたり、写真のあらゆる分野の活動を通して、改革者であり主導者であり続け、そのすべてが写真の発展に大きな貢献を果たしている。彼のキャリアの中で、最も重要であるにもかかわらず全貌が知られていなかったコンデ・ナスト社時代の作品を見ることができる本展は、ファッション写真に興味がある人にとって、必須の展覧会と言えるだろう。

また、展覧会でぜひオススメしたいのが、1892年から現在にいたるまで、120年以上にわたって発行されている米国版『Vogue』の全ページ (広告ページも含む) をPCで閲覧できるコーナー『Vogue Archive (ヴォーグ・アーカイヴ)』である。40万ページ以上をフルカラーでデジタル化しており、本来は有料のコンテンツだが、世界最大級のオンラインリサーチサービス『WGSN』の協力により、会場に設置されたPCから無料で閲覧することができるようになっている。

 

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