いまの若いひとには信じられないだろうが、私が20代の頃は韓国旅行など考えられなかった。日本の旧植民地だとか、軍事独裁体制だとか、そういうことはいっさい関係ない。理由はただひとつ。「韓国に行ってきた」などといおうものなら、まわりから蔑みの目で見られたからだ。

 当時は東京・赤坂を中心に妓生(キーセン)クラブと呼ばれる風俗店がたくさんあった。妓生は李氏朝鮮の時代に宮廷で歌舞音曲を供した女性たちのことだが、日本統治時代に芸者や遊女と同じく置屋や遊郭で一般客の相手をするようになった。そうした女性の一部が日本に渡り、風俗店で働くようになったのが妓生クラブだ。

 1970年代から日本人の海外旅行が本格化すると、朴正煕政権は外貨獲得を目的にソウルなどに大規模な国営娼館をつくり、日本人の団体客を迎え入れた。これが「妓生旅行」で、韓国に行くことは買春の同義語だったのだ。

韓国旅行の近代化

 私が大学生活を送ったのは70年代末から80年代初頭だが、その当時、すくなくとも“知的”な学生の間では妓生旅行は「醜い日本人(セックスアニマル)」の象徴で、アメリカやヨーロッパ、あるいはインドやロシアを旅することはあっても韓国旅行など許されないとされていた。

 だからこそ、1984年に関川夏央の『ソウルの練習問題』が世に出たのは衝撃的だった。版元は、椎名誠をデビューさせ、藤原新也の『東京漂流』を刊行するなど、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった情報センター出版局で、民主化闘争と金大中事件と妓生旅行でしか語られなかったステレオタイプの韓国像を打ち壊した関川の登場は時代の必然でもあった。

 関川は『ソウルの練習問題』で、「ハングル酔い」について書いている。

 ソウルの街は日本の街並みによく似ているが、看板だけがハングルで書かれている。だからソウルの街に迷い込んだ日本人旅行者は、日本の地方都市にいるかのように錯覚し、しかし看板は一文字も読めず、一種の酩酊状態に陥るのだという。

 この俊逸な語り口によって、それまでたんなる地図上の点にすぎなかったソウルは魅力的な非日常の街へと変貌し、多くの若者たちが「ハングル酔い」を体験すべく韓国に渡った。妓生旅行の悪弊は90年代までつづくが、それと同時に韓国は、香港などと並んで、「身近な異文化体験のできる国」になったのだ。

 その後、1988年のソウルオリンピックが近づくと、NHKの韓国語講座が大人気を博し、最初の韓国ブームが訪れる。その5〜6年前まで「韓国旅行」など口にすることすらできなかったのだから、この頃、日本人の韓国観が劇的に変わったのだ。

 関川はその後、『海峡を超えたホームラン』で、韓国プロ野球の黎明期に身を投じた在日朝鮮・韓国人のプロ野球選手たちの苦闘を描いて、タブーとされていた在日問題に一石を投じた(当時は、プロ野球選手の出自が在日だということは隠さなければならなかった)。いまでは在日コリアンが通名(日本名)ではなく本名を名乗るのが当たり前になったが、これまで「日本人」だと思っていたプロ野球の有名選手が、韓国名で韓国プロ野球でプレイするのは、やはり衝撃的な(エポックメイキングな)出来事だった。

続きはこちら(ダイヤモンド・オンラインへの会員登録が必要な場合があります)