アルジェリア人質事件に関して、被害者の実名を報道すべきかどうか、という議論が巻き起こりました。ぼくなりに、この問題の本質を考えてみたいと思います。

アルジェリア人質事件では、10人の日本人を含む多くの方が犠牲になりました。この場をお借りして、謹んで哀悼の意を申し上げます。

日本のメディアの報道を見て、2点、思うところがありました。ひとつはジャーナリズムのあり方です。

今回の事件では、「被害者の実名を公表するべきか否か」が問題になりました。政府は当初、亡くなられた方の実名の公表を差し控える方針を表明していましたが、それとは別に1月22日、ある被害者の方の実名と写真を報じた朝日新聞に対し、遺族が「取材時に『公表しない』と約束していた」と抗議しました。

もし遺族側の言い分が事実であれば、朝日新聞に非難が集まるのは理解に難くありません。しかし不思議なのは、そもそもなぜ、このような“約束”をしたのかということ。「実名を公表しない」という“取引”をすることで取材させてもらうというスタイルが、“ただひとつの真実”を追求し、報道する機関として妥当だったかどうか、再考してみる必要があります。

事件の被害者の実名報道についてはしばしば議論が起こりますが、ぼくは原則として「名前は絶対に公表すべき」という意見です。

政府が名前を公表するかしないかは、税金で仕事をしている機関だという点からしても、ケース・バイ・ケースの判断が求められる。しかし、ジャーナリズムが追うのはただひとつの真実のはず。国民に対し、誰がどういう状況にあったのかを伝えるメディアが自主規制するなんて本末転倒でしょう。被害者側に対する配慮は報道機関ではなく、政府の責任に当たる。政府の判断が正しいかどうかを監視することこそがメディアのミッションであるべきです。

政治、メディア、国民の“チェック&バランス”が緊張感を有していることが健全な社会の条件。メディアは国民の「知る権利」を満たすことに集中すべきです。世の中には役割分担があるわけですから。

実名報道問題の本質は“当事者意識”にあるとぼくは考えています。

すべての記事に署名を入れることが報道機関として大前提になることは言うまでもありません。例外なく徹底的に、です。署名しない、つまりジャーナリストとして“個”で責任を取れない人間が、実名報道に関して何を言っても説得力はない。ニューヨーク・タイムズなど欧米の主要紙はもちろん、報道規制下の中国の新聞でさえ署名は当たり前です。

もうひとつ、今回の事件を受けて感じたのが、日本全体を覆う“平和ボケ”の怖さです。

アルジェリア政府の“強行突破”という判断に対し、ここまで批判的な意見が聞かれたのは日本だけだと思います。アメリカやイギリス、フランスの首脳は、テロを非難し、アルジェリア政府を擁護する立場をとっている。「テロリストに譲歩してでも人命を優先すべき」という日本人の感覚は、世界の一般的な論調からは外れてしまっている。

海外に出て働く―ましてアラブ・中東、アフリカなど民族や宗教の問題が錯綜する社会で生きることは、少なくとも日本国内とは比較にならないほど「死と背中合わせ」です。アナーキー、弱肉強食、ゼロサムの世界なのです。

これから世界を舞台にチャレンジしたいという若武者たちに言いたい。世界は危険に満ちている。不確定要素も数知れない。だからこそやりがいも大きい。現地に行く前には徹底的に情報収集すること。着いてからも、最新情報を常にアップデートすること。情報力で身を守る。危機管理こそが生命線です。

日本が安全なのはいいこと。しかし、平和に慣れ切ってしまっては、グローバリゼーションの時代を生き抜くしたたかな“個”にはなれない。なぜ世界の現実から目をそらそうとするのか、逆に教えて!!

今週のひとこと

メディアも国民も“世界の現実”から目を背けてはいけません!!

●加藤嘉一(かとう・よしかず)

日本語、中国語、英語でコラムを書く国際コラムニスト。1984年生まれ、静岡県出身。高校卒業後、単身で北京大学へ留学、同大学国際関係学院修士課程修了。2012年8月、約10年間暮らした中国を離れ渡米。現在はハーバード大学ケネディスクールフェロー。新天地で米中関係を研究しながら武者修行中。本連載をもとに書き下ろしを加えて再構成した最新刊『逆転思考 激動の中国、ぼくは駆け抜けた』(小社刊)が大好評発売中!