神戸女学院大学名誉教授 内田 樹氏

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親族というのは生き延びるための制度である。だから、豊かで安全な社会においてはあまり必要性がない。親族が必要になるのは、略奪されたり、餓死したり、遺棄されたりするリスクが高い場合だけである。乏しく、危険な環境にいる人は親族がいた方が生き延びる確率が高く、豊かで安全な社会にいる人はそれほどでもない。親族の存在理由をかつてレヴィ=ストロース(※)は端的に「親族が存続するのは、親族が存続するためである」と書いたことがある。修辞的装飾をすべて剥ぎ取って言えば、それだけのことである。

わが国で1980年代以降、家族解体論がひろく流布した。その頃、私たちは人類史上はじめて「消費行動が社会活動の中心であるような文化」を経験した。人々は、どのような家に住み、どのような車に乗り、どのような服を着用し、どのようなインテリアで部屋を飾り、どのようなレストランでどのようなメニューを選択するか……といった一連の消費行動を通じて「自分が何ものであるか」を表示しうると考えるようになった。

それまで、私たちはもっぱら「親族共同体や地域共同体のために、何をなしたか」に基づいて、自分が何ものであるかを知った。消費社会ではそうではない。人は「自分のために何を買ったか」に基づいて、自分が何ものであるかを知る。これは明らかにきわめて興味深い一個の“民族誌的奇習”である。たしかにすでに世界の過半はこの奇習を採用しているが、それでもこれが一個の奇習であることに変わりはない。

消費社会は親族の解体を要求した。親族の存在が消費行動を制約するからである。

日本が貧しかった時代、消費行動は家族単位で行われた。商品選択については原則的には家族全員の合意が必要だった。臨時収入があると、その使途は家族会議の議題となった。子どもたちの要望はだいたい無視されたが、擬制的には満場一致で使途が決された。

だが、家族内合意が形成されない限り、消費行動が始まらないというのは、消費社会的には憂慮すべき事態である。消費社会は「欲しいものがあれば、返すあてのない借金してでも今すぐに買う人間」を理想とするからである。消費単位が家族である場合、合意形成手続きがまず消費活動を鈍化させる。さらに家庭は借金を嫌う。借金するとしても親戚から借りる。親戚は無担保無利子で金を貸してくれるが、その代わりに使途についてはうるさい。「ベンツを買いたいのですが」というような申し出は一発で却下される。

「身の程を知れ。お前なんか軽四で十分だ。だいたいお前は昔から計画性がなくて……」というような小言を覚悟しなければ、借金の申し込みはできなかった。「身の程」を決めるのは他者である。親族の絆が深い社会では、商品購入によって「自分らしさ」を表現する道筋は二重三重に遮断されていたのである。それゆえ、消費社会は消費単位を家族から個人に移行することに全力を傾注した。それに、不動産家具什器の類は家族単位で生活していれば一家に一式で足りるが、家族が解体して個人がばらばらに暮らすようになれば、人数分だけ需要が生じる。つまり、家族解体は「市場のビッグバン」を意味していたのである。

(※注:レヴィ=ストロース(1908−2009)はフランスの社会人類学者、思想家。現代思想における「構造主義」の祖とされる。著書に『親族の基本構造』『悲しき熱帯』などがある。)

■人類史上例外的な「幼児のままでいい社会」

だから、消費社会が「家族は解体されねばならない」と宣言したのは当然のことだった。夫も妻も子どもたちも、かつてにこやかに「ちゃぶ台」を囲んでいた全員が、自分に強制されていた「夫らしさ」や「妻らしさ」や「子どもらしさ」のイデオロギー性に気づき、それぞれの「自分らしさ」を求めて、家族を離れてゆく……という物語を私たちはそれこそ吐き気がするほど服用させられた。消費社会の始まった80年代は、映画もドラマも小説もCMも「そんな話」で埋め尽くされていた。

学術の世界も例外ではない。フェミニズム家族論と、「アダルト・チルドレン」論は消費社会にジャストフィットする社会理論であった。というのは、どちらも実践的な結論は「家族と一緒に暮らすのは心身の健康によくない」というものだったからである。カウンセラーや社会学者に悪意があったと私は思わない。たぶん彼ら彼女らは個人的経験を踏まえて、善意からそう主張したのであろう。

けれども、人間は何かにすがりつかなければ生きていけない。家族解体によって、家族たちを扶養したり配慮したりする義務から解放されると同時に、家族から信頼され負託される機会を失った人々は、社会的承認を別のかたちで求めるようになった。あるものは「自分らしさ」の限界をめざす蕩尽的な消費に嗜癖し、あるものは「自分探し」の終わりなき旅に出かけ、あるものは族長や預言者や導師のような「新しい家父長」にすがりついた。

そうこうしているうちに、「例外的に豊かで安全であった日本社会」は「それほど豊かでも安全でもない社会」になった。そして「やはり家族がいないと生きにくい」ということを言い出す若者たちが出現してきた。別に何が変わったわけでもない。「ひとりで生きるのがむずかしい時代」になっただけのことである。

「ひとりで生きられる社会」は、繰り返し言うように、人類史上例外的な達成である。そのこと自体は言祝(ことほ)ぐべきことである。けれども、そのような幸運は長くは続かない。というのは、例外的に豊かで安全な社会では、市民的成熟の機会が失われるからである。

「ひとりでも生きられる社会」とは、言い換えれば、他者との共生能力を欠いたものでも、対立者とのネゴシエーションや、利害のすり合わせができないものでも、つまりは“幼児のままでも”生きていける社会のことである。幼児のままでも生きていける社会では市民的成熟は動機づけられない。成熟した市民が安定的に供給されなければ、システムの補正やメンテナンスを黙々と担う人間がやがていなくなる。

システムというのは「ちゃぶ台」のようなものである。誰かが外部から食物を持ち込み、誰かが調理し、誰かが配膳し、誰かが片づけるから「ちゃぶ台」は機能する。「飯はまだか」とか「オレはこんなもの喰わんぞ」とか自己都合を言い立てるものだけがいて、資源の搬入や調理や後片付けをする人間がいなくなれば、「ちゃぶ台」は遠からず腐臭を発するカオスに変じる。同じように、自己利益の追求には熱心だが、公共の福利のために配慮することにはさっぱり気が進まないという人間がマジョリティを占めるようになれば、社会はもう以前ほど豊かでも安全でもないものになる。現に、なった。私たちはもう一度、他人に迷惑をかけたり、かけられたりして共同的に暮らすノウハウを身につけ直さなければならなくなった。

そこでめざされる「他者との共生」がかつてのような家族の復活であるのか、あるいは別のかたちの共同体モデルになるのか、確定的な見通しは私にはない。

家族に代わる「親密圏」を唱える人たちの中には、「強者連合」を理想とする人たちがいる。高い社会的地位をもち、安定した収入があり、趣味がよく、知的会話が楽しめるような人たちだけが集まって、愉快に暮らす共同体モデルを提唱した社会学者がいた。だが、その共同体のメンバーのひとりが失職したり、財産を失ったり、病気になったり、変な宗教にはまったら、どうなるのか。人々はその人がとどまることを望まないだろう。

家族というのは、逆にそのような「困った人」を受け容れ、扶養し、支援することをこそ主務とする制度である。私たちは誰でもかつては幼児であり、必ず老人となり、しばしば病人となる。個人の社会的能力がもっとも低いときを基準にとり、そのときでも共同体のフルメンバーとして愉快に過ごせ、自尊感情を維持できるように共同体は制度設計されなければならない。その点から言えば、さしあたり近代家族に代替しうるシステムを私は思いつかないのである。

※すべて雑誌掲載当時

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神戸女学院大学名誉教授 内田 樹
1950年、東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院博士課程中退。2011年神戸女学院大学文学部教授を退職し、現職。専門はフランス現代思想、映画記号論、武道論。07年『私家版・ユダヤ文化論』で第6回小林秀雄賞を受賞。『日本辺境論』で新書大賞2010を受賞。

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(神戸女学院大学名誉教授 内田 樹 撮影=熊谷武二)