日本の草分けはこの人だ!




「草分け」というと「先駆者」の意味ですね。後に続く人に先んじて、野を開墾する人のことです。「日本人で初めて○○をしたのは……」という「草分け」を調べてみました。





■日本人初の美人コンテスト優勝者は……!



末弘ヒロ子さん(1893-1963年)です。1908年(明治41年)に、日本で初めて行われた全国規模の「美人大会」で優勝しました。主催したのは時事新報社で「日本美人写真募集」という大会でした。



簡単にいうと「良家のお嬢さんの写真を募って一番の美人を決める」イベントでした。当時、ヒロ子さんは学習院女学部の3年生で数え16歳。ヒロ子さんはこの一件で学習院を中退に追い込まれましたが、縁談話が殺到したそうです。



ちなみにこの日本最初の美人コンテンストは、もともとアメリカの新聞『シカゴ・トリビューン』が日本予選として持ち込んだ企画。自薦他薦は問わないということでしたが、合計7,000通以上の応募があったそうです。



■日本人初の大学教授は……!



外山正一さん(1848-1900年)です。1876年に「東京開成学校」で教壇に立っていました。この後1877年に「東京開成学校」が「東京医学校」と統合して「東京大学」(東京帝国大学の前身)となった際に、東京大学唯一の日本人教授になりました。



■日本人初の飛行機の操縦士は……!



徳川好敏さん(1884-1963年)です。その名字からも分かるように、清水徳川家8代目の当主という名家の人。1903年に陸軍士官学校を卒業し、1909年には大尉になりました。1910年にフランスに派遣され、同年8月に日本人で初めて操縦士資格免許を取りました!



帰国した徳川さんは、1910年12月に日本初の飛行機による飛行に成功しました。このとき、日野熊蔵という陸軍歩兵大尉も一緒に初飛行に成功しました。



■日本人初の「国産鉄砲」製作者は……!



日本に鉄砲が伝来したのは、1543年、種子島においてといわれています。ポルトガル人から2丁の鉄砲を購入したのが最初とか。この鉄砲を何とか自前で作れないかと頑張って、1545年に初めて国内で製造に成功したのは八板金兵衛さん(1502-1570年)という人です。



なんと自分の娘をポルトガル人に嫁がせることまでして、その製造の秘密を習得したそうです。「火薬の爆発に耐えるため銃床をネジでふさぐ」という「秘密」は日本への「ネジの伝来」になりました。それまで日本にはネジがなかったのです。



■日本人初の「機械式卓上計算機」の製作者は……!



機械仕掛けの仕組みを駆使してデジタル演算をするための機械を「機械式計算機」といいます。日本では「タイガー計算機」が有名です。若い人は全く知らないでしょうが、1970年代まで会社によっては使っていました。



矢頭良一さん(1878-1908年)は「自働算盤」という「機械式卓上計算機」を1902年に発明しました。8桁まで使える性能は当時最高だったといわれています。



■日本人初の女子留学生は……!



1871年(明治4年)にアメリカに向けて出発した5人の女性が日本初の女性留学生です。津田梅子さん(当時満6歳)、永井繁子さん(当時満10歳)、山川捨松さん(当時満11歳)、吉益亮子さん(当時満14歳)、上田悌子さん(当時満16歳)です。



彼女たちは、年端もいかないのに10年という留学期間が設定されていました。吉益亮子さんと上田悌子さんは体調不良などを理由に1年余りで帰国しました。しかし、ほかの3人の女性は頑張り続けたのです。



津田梅子さんは、日本の女子教育のために帰国後「津田塾大学」を作ります。生涯にわたって女性のための教育を考え続けました。



永井繁子さんは帰国後、音楽教師の道に進みます。彼女は日本初のピアノ教師になり、日本における洋楽教育を切り開いたのです。



山川捨松さんは、後に陸軍大将となる大山巌と結婚し、アメリカで受けた教育を基に、列強を向こうに回して鹿鳴館外交の前線に立ちます。彼女は「鹿鳴館の花」と呼ばれました。



■日本人初のエベレスト登頂者



エベレストの世界初登頂者はヒラリー卿とテムジンですが、日本人では誰でしょうか? 松浦輝夫さんと植村直己さんです。1970年(昭和45年)5月11日のことでした。

植村直己さんはこの後も登山を続け、1984年に厳冬期のマッキンリー世界初単独登頂に成功しながらも、残念ながら帰ってきませんでした。命日は2月13日とされています。



■日本人初のオリンピック金メダリスト



1928年(昭和3年)にオランダで開催されたアムステルダムオリンピックで、織田幹雄さん(1905-1998年)が三段跳びで日本人初の金メダルを獲得しました。記録は15m21cm。



織田さんの優勝は関係者が予想できなかったため、日章旗を慌てて用意したそうです。そのためほかの国の旗の4倍の大きさ、しかも「君が代」を途中から演奏するといったドタバタだったそうです。ヒドイですね。







(高橋モータース@dcp)