東京のココは昔こんなだった! 歌舞伎町は沼地!




東京という街は進化が速くて、「あれ、ここ昔何だったっけ?」なんてことがよくあります。忘れるより早く移ろいゆくのです。東京のココ、昔はこんなだった! をさかのぼって調べてみました。





■歌舞伎町はすっぽり沼地でした



今は世界に知られた、ネオン輝く歓楽街・歌舞伎町ですが、元からこんな歓楽街だったわけではありません。江戸時代には、その東側、現在でも十二杜(じゅうにそう)通りという名前が残っていますが、その十二杜は低湿地帯でした。ここにはなんと2つの池があり、滝まである景勝地だったのです。



明治になると、現在の歌舞伎町には元長崎藩主大村家のお屋敷がありました。広大な土地で、「大村の森」と呼ばれる沼地が広がっていたのです。この沼は鴨場(鴨の狩猟を行う場所のこと)になっていました。



この沼地が埋め立てられたのは1893年(明治26年)の淀橋浄水場建設のときです(残土処理として)。また歌舞伎町と命名されたのは1948年(昭和23年)のことです。



■秋葉原は壮大な原っぱでした



今や「世界の秋葉原」ですが、江戸時代にはその名前のとおり、広大な「原っぱ」が広がっていました。というのは、現在の佐久間町界隈は、木材、薪の集積場所で、火がつくと大変に危ない場所だったからです。



1869年(明治2年)には大火事が起きて、一面焼け野原になってしまいました。翌年、明治天皇の勅命によって約9,000坪(約3万平方メートル)の火除(ひよけ)地が設けられ、鎮火の神様を祭った「秋葉神社」(あきばじんじゃ)を建立しました。



つまり「秋葉っ原」(あきばっぱら)だったわけです。1888年(明治21年)に貨物駅の秋葉原駅ができ、神田川につながる掘割が造られてから「物流拠点」としての秋葉原が始まります。現在につながる電気街の基礎となったのは戦後からです。



■吉原は値段が高く高嶺の花なので……



江戸は世界に冠たる百万都市でしたが、男女比率は一番ヒドイときで64:36で男性の方が多かったといわれます。つまり男1.8人に女1人の割合。これでは男性があぶれます。というわけで、娼館ができるのです。



といっても吉原は値段が高いし、高嶺の花なので庶民的ではありません。さっさとできて……という場所が作られたのです。それが「岡場所」といわれるところです。



江戸にはまず4つの岡場所がありました。品川、内藤新宿、板橋、千住です。「内藤新宿」というのはなじみのない呼び方でしょう。現在の新宿1丁目-3丁目界隈になります。当時は私娼がたくさんいて大繁盛していたそうです。



現在の発展ぶりに通じるものがありますね。



■犬を飼育するには土地がいる!



悪法として名高い「生類憐みの令」ですが、5代将軍・徳川綱吉が1687年(貞享4年)に出したこの法律は江戸の町にも大きな影響を与えました。保護した犬を入れておく広大な場所が必要になったからです。



「お囲い」と呼ばれる犬の収容施設が、大久保、四谷、中野に造られました。当時は土地の接収が容易だったのでしょう、中野には特に巨大な「お囲い」がありました。犬が増えるにつれて規模は大きくなり、現在の中野四丁目、JR中野駅東側など、5つのエリアに、計約29万坪もの「ドッグパーク」ができたのです。



最盛期には10万匹余りの犬がいたのではないかといわれています。ちなみに綱吉の死後、これら「犬屋敷」は解体され、跡地が桃畑に転用されたとのこと。



*……中野区教育委員会の資料に記述があります。



■日比谷公園は元は入江!



日比谷公園がある場所はそもそも埋め立て地です。江戸時代前は「日比谷入江」という「海っ端」だったのです。それが江戸初期の埋め立て工事で「日比谷」になりました。そして桜田御門前の譜代大名の並ぶ大名屋敷に。



明治時代には大名屋敷を取りつぶして練兵場になりました。その後、ここに官公庁が建つ予定だったのですが、「地盤が軟弱である」として「公園」になりました。その理由で公園にするというのもいかがなものか、なのですが(笑)。







(高橋モータース@dcp)