ずっと独身でいるつもり? (21) 独身女の社会常識

写真拡大

『負け犬の遠吠え』という、酒井順子さんの有名なエッセイの本があります。

私は最初にタイトルを聞いたときは「酒井さんのように、文章で成功しているすてきな女性に『負け犬』なんて言われたら、私なんて地面に埋まるしかないじゃないの!」と悲しい気持ちになったものですが、読んでみると酒井さんの意図するところがよく理解でき、また独身女性の肩身の狭さ、生きづらさが細やかに描かれた素晴らしいエッセイだという感想を持ちました。

その中で、ことあるごとに思い出すエピソードがあります。

それは「冠婚葬祭」の話。

独身の負け犬は冠婚葬祭に弱く、いいところに嫁いだ勝ち犬女性が、普段は質素な服装をしていても、お葬式では「質の良い生地でできた喪服に粒のそろったブラックパール」を身につけている一方、負け犬女性は「適当に買ったツルシの喪服」、結婚式でも勝ち犬女性は「若いミセスらしい桜貝色や若草色の着物」なのに、負け犬女性は「ま、無難なところで……」と黒いドレスなどを着用してしまい、暗雲のような雰囲気を漂わせてしまうというエピソードです。

まぁ、普通は社会人としてそういった「冠婚葬祭のマナー」はしっかり覚えるものだと思いますが、単身上京して、私のようなしっかりしてない仕事をしている独身女は、そういったマナーを学ぶ機会がほとんどありません。

お葬式やお通夜で「しまった! 数珠忘れた!」ということも、恥ずかしながら二度や三度ではありませんし、お焼香の手つきもおぼつきません。

結婚式でも、派手な服はたくさん持っているものの、貸衣装や和装でしっかりキメてきた人たちに比べると、なんだか「きちんと感」が足りないありさまです。

独身女には「○○家の嫁として」みたいなバックボーンがありません。

「○○家の娘として」というのはあったはずなのですが、地元を離れて暮らしていると、そういう「地元のつきあい」での冠婚葬祭も少ないです。

それゆえに「恥をかいても、ただ自分の責任」という感覚になってしまい、背負うものが軽すぎて「きちんとしなければ」という重しが全然足りないのです。

最低限の常識はあるつもりでも、冠婚葬祭や儀礼的なこととなると、いきなり弱くなるのが私のようなフリーの独身女です。

喪服はフリマで買ったA/Tです。

ボタンがひとつ取れてます……。

さらに最近、自分の非常識を実感する出来事がありました。

友達に第二子が産まれ、私は出産祝いに何を贈ろうか考えていました。

第一子がいるので、ベビーグッズで必要なものはなさそうです。

ベビー服でも良いけれど、どうせなら友人の好きなものを贈りたい……。

そう思って、彼女の家のことを思い出してみると、すごくシックなインテリアのお部屋に、なぜか埴輪が置いてあったことを思い出しました。

あまりの意外性に「え〜、なんで埴輪!?」と笑っていると、彼女は「これすごく気に入ってたのに、地震で割れちゃったんだよ〜」と言ったのです。

私は得意のネット検索で、それとは違う種類の、すごくかわいらしい埴輪をネット通販で探し出しました。

しかし……ものは埴輪です。

「これは、もしもハズしたらもっとも要らないプレゼントになるな……」。

さすがにそう思い、友人にこれが要るかどうか確認してみました。

答えは「子供がいるから割れ物は飾れないの。

気持ちはとってもうれしいけど……」でした。

そしてさりげなく希望の品が書いてあり、私はすごく助けられた思いで、彼女の気に入るプレゼントを贈ることができました。

普通に考えて、埴輪はないです。

もちろん無難なリネン類も最初に考えましたが「タオルはふわふわ派なのか、オーガニックコットンとかのシャリッと派なのかわからない」と頭を抱えてしまい、思考はどんどん「個性派」な方向へ……。

本当にいきなり埴輪を送りつけて、幸せな一家をポカーンとさせる事態にならなくて良かったと思うばかりです。

そして、こっちが何を贈っていいのか困っているであろうことを察して、さりげなく希望の品(ものすごくお手頃なお値段のものでした)を言ってくれる彼女の「大人力」にも感動しました。

冠婚葬祭、贈り物など、人生には「無難がいちばん」という局面が多々あります。

「そこでヒネらなくていいんだよ」という場面です。

そんなところでいちいち、気持ちが上滑りして空回りする……そういうことが自分には多くあるような気がします。

私の人生には、「無難」が足りないのです。

そんなことでは、たとえ結婚できたとしても、親戚づきあいで大恥をかくであろうことはわかりきっています。

なんとか「無難」という名の「大人としての常識」を、覚えていきたいものです。

イラスト: 野出木彩